空墓所から
68.美容室戦記
髪が伸びてきた。もうぼさぼさだ。
いい加減みっともないので美容室に行こうと思うのだが、ここに一つの大きな関門が横たわっている。恐らくピンときた方もいるであろう。カットをしてくれる美容師さんとの会話だ。
世の中は2種類の人間にわけることができる。社交的な人間とそうでない人間。陰キャと陽キャとかいろいろな言い方はあるかもしれないが、要するに他者と上手に会話を行えるか否かということだ。これは、70億だか80億だかという大量の他人がいる地球上において、なかなか重要なスキルと言えるだろう。
もちろん、他者とのコミュニケーションを苦手とする人間がいてもいい。自分から話すのが苦手でも、訓練次第では聞き上手という立場にクラスチェンジすることが可能だし、たとえ口から出る言葉が不器用でもそれが朴訥さや愛らしさ、守ってあげたいという形で魅力になることもあるだろう。また、苦手なコミュニケーションを恐れるあまり他人との接触を拒んで、『孤独は優れた精神の持ち主の運命である』という偉人の言葉を胸に生きていったって許されるはずだ。
自分が非社交的な側なので、ついついそちら側の弁護に言葉を割いてしまったが、喫緊の問題はこれから行くお店でカットしてくれる人との会話をどうするかだ。
ある程度の問答は想定できる。どういうお仕事をされているんですかとか、休みの日は何をして過ごしてるんですかとか。こういうのは事前に答えを準備できるし、最悪の場合はうやむやにしたってどうにかなる。でも、少しばかり外れた質問が来るともうどうしようもない。仕事の話を根掘り葉掘りされたら、専門的に説明が難しい部分や社外秘な事項をうっかり話せなくて考え込んでしまうし、休日に関しても家でゲームをしているっていうのはどことなく気恥ずかしい。運良く美容師さんと同じゲームをやっていて、その話で盛り上がるなんてことはまずないだろう。
こちらの思惑から外れない話題だけであの2時間弱をしのぐ方法はないだろうか。すっかり伸び切った後ろ髪がくすぐる首筋をかきむしりながら考え込む。そのとき、ぼさぼさ髪の中央に鎮座している脳が一つの案を弾き出した。
店に予約を取った数時間の後、その時間の数分前に店を訪れる。スタッフの案内に従って席に座ると、今回担当する美容師が後ろからカットクロスをまとわせてくれる。
「今日は、どのようにされますか」
美容師の快活なその声に、俺はまくしたてるように答えた。
「全体的に短めにする感じのおまかせでお願いします。ところで、休日は僕、寝ていることが多くって、1日スマホを見ながら寝っ転がっていることも多いんですよ」
美容師の表情が少し変わったような気がしたが、まず先制攻撃は無事に成功したはずだ。
そう。話題が思惑から外れたくないのなら、先手を打ってこちらから話題を固定してしまえばいい。相手が相槌しか打てないような状況を作ってしまえば、自分が好きなことを話す時間が手に入る。どうせリア充のスマホ使用法なんてLINEで恋人や友人と連絡する程度だろう。そんなビニールプールよりもあっさい話題はさらっと受け流して、ハマっているソシャゲや人工知能で生成している画像の話でもまくし立ててやればこちらの勝ちだ、そう思ったのだ。
「……はい。全体的に短めにしていく感じですね。かしこまりました。ええっと、あの、私はサッカーが好きで、フットサルのチームに入っているんですよ。だから、休日は練習とか試合とかをしていることが多いですね」
美容師という存在はやはり会話の達人なのだろう。先制パンチを食らってもすぐに休日というワードを拾って、立て直してくる。くやしいがその腕は見事だと言わざるを得ない。しかもフットサル。体なんか年単位で動かしていないこちらには対応のしようがない話題。仕方がない、あきらめて話題をスライドさせるしかない。
「ところで、ラーメンとか食べます? 僕はやっぱ二郎系が好きなんですよね。でも、血糖値がやばいんで最近ご無沙汰なんですよ」
ふん。フットサルをやっていれば、摂取カロリーを気にしているだろう。そんなやつにラーメンの話題なんかついてこれるはずがない。それに定期的に運動している健康体なやつは血糖値なんて気にしたこともないはず。さあ、あとは注文するときのあの呪文のごとくラーメンのうんちくを語り続ければいいだけだ。
俺は会心の笑みを浮かべる。彼は俺の前髪にすきバサミを入れながら涼しい声で話し出す。
「あー、二郎、いいですよね。私、松戸の美容師学校に通ってたんで松戸の駅前の店に友だちとよく行ってたんですよ。でもやっぱり年を取るとなかなかいけないですよね」
「そ、そ、そっすか」
「あと、私、千葉の出身なんですけど、千葉には竹岡ラーメンっていうのがあるんです。薬味に刻んだ玉ねぎをふんだんに入れるのが特徴で。玉ねぎは血糖値を下げるらしいので、機会があったらぜひ食べてみてください。おいしいですよ」
「あっ、は、は、は、はい。ありがとうございます」
……なんてことだ。完璧に受けきりやがった。美容師というのはこんなにも柔軟に会話をやり取りできるものなのか。絶望に打ちひしがれそうな心をどうにか気力で支える俺の背後で、彼は順調に俺の伸び切った後ろ髪を切り整え始める。
……いや、ラーメンはグルメだ。そしてグルメは話の取っ掛かりには最適と言っていい話題の一つだ。それに、年配の方はどうしても病気の話題をしがち。この美容師も当然、年配の方の髪にハサミを入れたことがあるはず。
そう。二郎と血糖値という狭いところを突いたつもりでいたが、どちらも与し易い話題だったんだ。そんな話題で戦えば、練度で劣る俺に分が悪いのはわかりきっていたことだ。