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空墓所から

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59.切り替え



 10歳になった。

 10歳、小学4年生。恐らく6年間で最も安定していると言っていい学年だろう。やってはいけないことは既にあらかた理解しているし、怖い先生や優しい上級生もだいたい把握している。友人間でもある程度グループが形成されるし、近所の遊び場所だってよくわかっている。お受験をする子はともかく、地域の市立中学に行く僕らは勉強もほどほどにやっておけばいい。こんなふうに、小学校生活を思いっきり満喫できる1年。それが小学4年生であり、すなわち10歳前後であると僕は思っているのだ。

 もちろん、安定しているといっても全てがそうというわけではない。小学校の高学年として、低学年の模範となるべき行動や思想を要求されたりする。校則を破って遠出をしたり、自転車で猛スピードを出したりしたら、大人からこっぴどくしかられる。体が大きくて面識もそれほどない中学生はやっぱり怖いし、車や川、不審な人などといった命に関わる危険も周囲に存在していて、決して安泰というわけではないのだ。

 さて、こんなふうにいろいろな状況やものに囲まれて生きている10歳の僕だが、つい先ほど誕生日祝いのケーキをおいしく食べながら、プレゼントでもらったゲームを起動させて遊んでいる状況で、ふと、あることをしておかなきゃと思った。
 10歳。初めて年齢のけたがふたつになったわけで、これがみっつに増えるのはもう人生の終盤の終盤だ。場合によってはそれまでに人生が終わってしまうこともあるくらい先の話。そう思うと、この誕生日のうちにこれだけは済ませて置かなければと切に感じたのだ。

 それは「ママ」という呼び名を「お母さん」と切り替えること。

 別に「ママ」のままでも構わない、そういう意見もあるだろう。母側としても、実はいつまでも「ママ」と呼んでほしいのかもしれない。しかし、これは母━━息子間の単純な問題ではないのだ。

 例えば、僕が家に友だちを連れてきたとする。そして僕らがゲームなどに興じている間に、母が茶菓の類を持ってきてくれる。そして二言三言、友人たちと会話を交わし、初めて見る子の名前を確認してからすっと扉を閉める。ホスト側、クライアント側、どちらも多くの人が経験のある一幕のはず。
 だが、ここでたまに母のことを呼称する瞬間があることを僕らは忘れがちだ。その際、「ママ、あの残しておいたポテチ、あれは?」とか、「お茶じゃなくてジュースにして。ママ」というふうに。このとき、ついつい普段の感覚で母のことを呼称してしまう。すると、招いている友人たちに普段、母をどのように呼んでいるかが赤裸々になってしまう。

 その際、なぜか呼称が「ママ」だと嘲笑の対象になるようなのだ。

 なぜ笑われるのかは僕もよく知らない。が、どうも「お母さん」はセーフらしい。
 実際、僕のクラスでかつて中心人物だった浅川くんは、たった一度担任の森原先生を「ママ」と呼び間違えてしまい、中心人物の座を奪われてしまった。最近は、いつも教室の隅でノートに絵を書いて暇をつぶしている。浅川くんの場合は、間違えて女の先生に呼びかけてしまったといううっかり過ぎるミスも大きいと思うが、どちらにしても、頻繁に家に友人を呼ぶ僕は、今までなんとか隠しおおせてきたこの母を「ママ」と呼ぶ悪癖を早急にやめなければならない立場に立たされている、というわけだ。

 ならば、今。10歳になったこの瞬間が好機だ。今日、是が非でも「ママ」ではなく「お母さん」と呼ぶべく、念入りに脳内でシミュレーションを重ね始める。

 プレゼントのゲームをしながら、「お母さん」と呼ぶイメトレを重ねていると早速チャンスがやってきた。母が僕の部屋に入ってきて、ゲームは面白いかと聞いてくる。僕は脳内で何度もした練習通り、振り向いて母の目をしっかりと見て言った。

「うん、面白いよ。ありがとう、お母さん」

 母は一瞬目を見開いて驚いた表情をしたかと思うと、一目散に階段を降りていって何やらガタガタし始めた。どうやらスマホで父や親族に連絡をしているらしく、声が2階にも漏れ聞こえてくる。

「そうなの。あの子がね、「お母さん」って呼んでくれたのよ。いつまでも「ママ」なのもどうかなって思っていたんだけど、やっぱりあの子、こういうことは本当にちゃんとできる子なのよねえ……」

 呼び方を変えただけでこれだけ手放しで褒められると、くすぐったくて仕方がない。それに、別に母の意をくんで呼称を変えたわけじゃない。どちらかというと世間体、社会がそうさせたのだ。

 母は、仕事中の父に手短に報告し、実家と義実家、大学時代の友人たちにも連絡をして、僕の「お母さん」の一言をこれでもかとうれしそうに話し、相手のあきれ気味な感情から紡がれる賛辞の言葉をシャワーのようにその身に浴びていた。

「……大人ってのはこんなにも称賛がほしい生き物なんだなあ」

 たとえ自分の息子でも、何かができることを自慢したいというその気持ち。もちろんそういうものが競争力を生み出し、この資本主義社会を押しあげてきたと考えれば、決して無駄なものではない。むしろ人類にとって有用なものだとすら思う。だけど、どうしても僕はそこに何か割り切れないものを感じていた。

 そのせいだろうか、あまりの母のその溺愛っぷりを聞いているのがつらくなってしまい、気付いたら、せっかく買ってもらったゲームを起動したまま、思わずベッドに寝転んで眠ってしまっていた。

 夜になって、どうしても外せない接待とやらを終え、泥酔状態でようやく父が帰宅した。そして、昼寝のせいですっかり目がさえて眠れない僕の話を聞いて

「まあ、大人になったらまた「ママ」ができるさ。いわゆる夜のお店にねぇ」

と、ふにゃふにゃした顔で言い、ソファでいびきをかいて寝てしまった。

 父の言葉はよくわからなかったけど、父や母をはじめとした大人たちが大変なことだけは10歳の僕でもなんとなくわかったような気がした。


作品名:空墓所から 作家名:六色塔