小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

空墓所から

INDEX|2ページ/110ページ|

次のページ前のページ
 

80.蕎麦屋にて



 久しぶりに近所の蕎麦屋に訪れた。

 いわゆる街蕎麦とでも言うのだろうか。いつからやってるのかわからないくらいの老舗。この道何十年というこだわりを持った大将が取り仕切るこの店の暖簾をそっと潜る。

「いらっしゃいませ。空いてる席へどうぞ」

 これまたいつもの大柄なおばちゃんが出迎えてきて、ぶっきらぼうに普段と同じセリフを吐く。この店に通いだしてもう20年近くになるが、空いている席がなかったことなどないので、いつもこの科白だ。もっとも、人混みを避けて15時頃にやってくるので、お昼や夕時なら別の言葉も聞かれるかもしれないが。
 とにかく空いている席に座り。お酒と天ざるを頼む。恐らく通はちゃんと最初に酒とつまみを頼んで、頃合いを見計らって閉めにもりやざるといくのだろう。だが、あまり金のない俺は天ざるの天ぷらで酒を飲んで、伸び始めたざるを慌ててすすり込むというあまり意地が良くない食べ方をしている。まあ、それでも気持ちよく酔えるし、閉めの蕎麦は美味いのだから、ありがたい話だが。

 そんな至福の時間が早くやってこないかなと席で待っていると、ちょうど斜向かいの座席に客人がいることに気がついた。
 年の頃は30半ばかもう少し若いぐらいか。男女がふたり。恐らく夫婦だろう。だが、ふたりは店を異様にキョロキョロと見回して、不安げに時折目線を交わしている。
 ははぁ。俺はそれだけで合点がいった。なぜならこのふたり、どちらもあからさまに日本人顔ではない。きっと外国の方なんだろう。おそらく海外から旅行なり用事なりで日本にやってきて、記念に珍しいものでも食おうということでここの暖簾を潜ったに違いない。だが、入ったまでは良かったが、注文を待っている間に怖気付いてしまった、というところだろう。
 ふたりのひそひそ話からは、カタコトではあるが日本語のようなワードもこちらに聞こえてくる。どうやら多少は日本語がわかるようだ。
 まあ、不安な気持ちはとてもよくわかるが、ここは街の蕎麦屋だ。大将も美味い蕎麦を提供するがマナーをうるさく言う人じゃない。おばちゃんはぶっきらぼうで外国語もからきしだろうから、何も言ってこないはず。そういう意味では多少、ここで粗相をしても怒られることはない。だから、今回を機にいろいろと間違いながらでも蕎麦の食べ方をマスターして、次回以降に落ち着いて食べれば良いんじゃないかな。このときの俺はそんなふうに考えていた。

 その瞬間、早めに注文していたふたりの食事が届く。それは天ざる。

 ふたりは盆の上に乗せられた複数個の皿に圧倒されていた。それでも恐らく蕎麦のざると盛り合わせになった天ぷらくらいはわかるだろう。だが天つゆとそばつゆ。このいささかキャラが被り気味の茶色いつゆふたつは、ふたりにはその意図が理解できなさそうだ。
 そんなとき、ふたりの困惑を斜めから見ていた俺の元にも天ざると酒の入った徳利、お猪口が届く。その瞬間、俺はこのふたりのピンチを救う手段を考えついた。

「よーし、天ざるを食うぞ―」

俺は店内に響き渡るくらいの大声でそう宣言すると、薬味の皿を手に取る。

「緑の輪っかになってるやつ。このネギがピリッとしてるんだけど、たまらないんだよなあ。これをこっちの口が狭い方のつゆに入れて、と」

薬味をちゃんと聞こえるように大げさに説明し、入れる場所もそれとなく口にしていく。

「ゴマはセサミっていうくらいだから香ばしくなるんだよなあ。これも入れておいたほうが美味くなるねえ」

斜向かいのふたりは、どうやらこちらの意図に気づいたようで、戸惑いながらもそばつゆに薬味を入れていく。

「この緑色のわさびってのがねえ。鼻にツーンとくるからねえ。最初は少量で様子を見て、好みだったら足していくってのがいいんじゃないかな」

ふたりは俺の言う通りにほんの少しだけつゆにわさびを溶かしだした。

「薬味を入れ終わったら、さっそく蕎麦を食おうかな。こうやって蕎麦を5、6本、箸でつまんで、おつゆにつけて、こうずるずるずるーっとね」

俺がすすり込んだあと、向こうから「ずっずっ、ずぞ」という不器用な音が聞こえた。

「まあ、音を立てて食うのが美味いんだけど、すするのが難しい人もいるし、音を立てるのに抵抗がある人もいるから仕方ないよなー」

二人のほうは全く見ずにフォローをしながら、今度は天ぷらに箸をつける。

「そばの合間にちょっと休憩したくなったら、やっぱ天ぷらよ。これは、こっちの口の広い方のつゆにつけて、と」

サクッとした音が自分の口内から聞こえた後、二人のほうからも同じような音が聞こえる。とりあえずここまで教えておけば、食べ終えることはできるだろう。

 しばらくたって、俺たち3人は無事に天ざるを食べ終えた。

「さあーて、こっからもまだお楽しみがあるんだよなあ。これだから蕎麦はやめられないんだ。すんません、そば湯をください。あ、あちらのテーブルにも」

ややあって、おばちゃんがそば湯の入れ物を持ってくる。

「これ、蕎麦の茹で汁なんだけどさ。またこれがうまいんだ。こうやって、残ったそばつゆに入れて飲むんだけど、好きな人はそば湯だけでもグビグビいっちゃうからねー」

そうやって俺とふたりはそば湯を堪能した。その後、約束の時間でもあるのか二人が席に立ち、お会計をしに行く。

 会計の前に、二人が俺に握手を求めてきた。

「スバラシイランチ、スゴセタ。アリガトウ」
「ニホンノソバ、トテモステキ。マタキマス」

別に俺は大声を出して飯を食っただけだから、と格好つけようとしたが、それを二人に伝えられる自信がなかったので、大人しく握手に応じることにした。

 ふたりが立ち去り、目の前には天ぷらをアテに飲もうと思っていた酒が冷やのままで残されている。腹が膨れた状態で飲んでもな、と思い俺も席を立とうとしたら、おばちゃんがすっと板わさを俺の前に置いた。

「あんたのお陰であたしも助かったよ。お代はあたしが出すから、これで飲んでおくれ」

 満腹だったが頂戴することにした。勝利の美酒とはちょっと違うかもしれないが、決して悪くはない酒だった。


作品名:空墓所から 作家名:六色塔