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空墓所から

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「え?」

思わずつかもうとした手が止まる。光はあっという間にその輝度を高め、俺はまぶしくて何も見えなくなる……かと思ったら、その光の中で光源のはずの「おにぎり」だけがはっきりと目に入ってくる。俺は紫のまぶしさから逃げるようにそこに顔を近づけ、「おにぎり」の内部に視線を集中させた。

 そこには、得も言われぬような景色が広がっていた。新緑の茂る緑の中で、それらをおいしそうに食む牛の群れ。それを、これまた快活な格好と表情、そして声音で制御する牛飼いの男女。二人は牛を追い立てるのに疲れると、近くの木陰に腰を下ろし、なにやら睦言を交わし始める。そんな二人を気にすることもなく、牛たちはのろい歩みでこちらに集まってくる。

(あぁ、あんなふうに気楽に仕事、してぇなぁ)

画面を食い入る様に見ていた俺がそう思うのも仕方がない。今の会社なんて、女っ気もないし、あんな気軽に一休みなんかできやしない。商品はあの牛ほど聞き分けはよくないし、機械は肝心なときに誤動作して俺らを苦しめるんだ……。

 俺は、楽園を見る感覚でそこにずっと目をやっていた。すると、あまりにも仲が良すぎて、人目をはばからず本番でもおっ始めそうな雰囲気でいる牛飼いの男女が、お互いを熱いまなざしで見つめ合ったまま、片手間で周囲の白黒の獣に指示を出した。

 牛たちは、恐らく二人の男女が望んだ通りに列を作って順番通りに牛舎に入っていく。その日の仕事を終えたと思われる美男美女は、キャッキャウフフと手をつなぎながら、それ以上の行為がもうしたくてしたくてたまらないかのように、近くの小屋へとしけこんだ。そんな二人を見送ったと思ったら、あんなに強く放たれていた紫色の光はすっかり消えうせ、目の前には普段どおりのつり革がプランと力なくぶら下がっていた。

 ふと気が付くと、周囲の人々もそのおにぎりの枠内の光景を見ていたのか、ほぅというため息が聞こえたり、いくつかの感想が独り言のように飛び出したりしていた。

「あんなふうにさ、楽しい毎日、送りたかったよなぁ」
「ああ、あんなふうに女の子と、イチャイチャしたいなあ」
「あんな頼りになる男子なら、共働きでもかまわないのになあ」
「いやあ、すっかりいやされちゃった。今日一日、頑張れそうだな」
「やっぱり、いいものを見るとすっきりするよ。肩こりが少し改善したもん」

(そうだよなぁ、あれでいいいんだよ、あれで)

彼らの声に同調する気持ちでそんなふうに思いながら、俺はもうすっかりただのつり革と化した三角形のプラスチック状の物体をつかむ。何も大金持ちになりたいわけじゃないんだ。名声がほしいわけでも、名誉がほしいわけでもない。ただ、飯が食えて、気の合った異性がそばにいてくれて、ベッドで眠れる。そんな人並みの、ほんの人並み程度の幸せでいいんだよ。

 そんなふうに考えていると、車両が音を立てて止まる。見上げて駅名を確認するとちょうど降りる駅。俺は慌ててつり革から手を離し、いつの間にか混雑していた車内の人混みをかき分け、プラットフォームに降り立つ。あとは、駅の改札を抜け、数分ほど歩けば職場だ。

「……まあ、確かにいやされはしたが、元気がいっぱいとまではいかねえな」

俺はそうつぶやいて、駅の改札を抜ける。

 そりゃそうだ。こちとら10年以上も会社にこき使われてきているんだ。ほんの数分、しかも自分が体験できっこない桃源郷を見せられたって、今までの仕打ちや理不尽のあかがすっかり奇麗に洗い流せるわけがない。

 それはそれ、これはこれ、そういうこと。駅から出た俺は、頭にくるほどの快晴に目を細めながら、今日もボロボロの体で一日を戦うために会社へと向かって歩き出した。


作品名:空墓所から 作家名:六色塔