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空墓所から

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32.つり革から見た景色



 朝。

 眠い目をこすりながら、愛しくてたまらないベッドからはい出る。顔を洗い、歯を磨きといった、たいして面白くもない諸々の準備をこなす。行きたくもない会社へ行くための準備をする苦痛の時間。

 こんなことをこれからまだ30年以上も続けるのかと思うと、うつを通り越して死にたくなる。なので、そこにだけは思考を行きつかせないようにしながら、どうにか出社の準備をこなしていく。

 でも、そんな朝の面倒な自宅でのルーティーンを終えても、ちっとも気持ちは休まりはしない。なぜかと言えば、これからさらに面倒な作業が待っているからだ。窮屈なスーツという出で立ちで、同士に囲まれながら鉄の箱にすし詰めになって、トイレにもいけない中で一時間ばかりを過ごすという苦行。あれをこなさなければ、勤め先にすらたどり着くというスタート地点にも立てないだなんて、世の中どこか間違っているとしか思えない。

 そんな不条理をかみ締めながら、渋々駅に向かう。だが、満員電車という苦痛のさらに先に待っているのは、約8時間(それで終わるかどうかすら定かではない)にわたる労役。それを思うと、どうしても足取りは重くならざるをえない。そのために上がらない足を無理に動かして最寄りの駅の改札を抜け、目的の電車がやってくるプラットホームにどうにか足を踏み入れる。だが、そこまできたところで表情が晴れることなんかあるはずはない。それどころか、顔つきはどんどん曇っていくばっかりだ。

 それは、やってきた8両編成のおりの中の人となってももちろん変わらない。いつもと大して変わらぬメンツ。彼らに自分の苦境を話すことなんかとてもできないし、彼らのそれを聞かされても俺もどうすることもできやしない。同じような境遇なのに仲間じゃないし、恐らくこれからも仲間になることなんかない。そんな誰もがモブ役をやっている世界で、笑顔のやつがもしいたとするなら、そいつは狂人じゃなくてなんなんだというのだろう。

 背後で扉の締まる音がして、ゆっくりと床が動き出す感覚。車内はまだそれほど混んではいない。俺は手近なつり革はないかと思い、キョロキョロと周囲を見回した。そのとき、ふと普段とは違うものが目に入った。

 それは、周囲より少しばかり濃いめの人だかりだった。それほど混んでいない電車なら、みんなある程度距離を取るものだ。見知らぬ人がわけもなく近づいてくれば誰だって警戒するのだから。だが、その場所は他の場所よりも人が密集している。最初、部活の遠征などで電車に乗り込んでいる学生たちかと思ったが、そうでもないようだ。俺は、出社とその先の仕事に対する苦痛をしばし忘れてその場に歩み寄り、人混みをかき分けて彼らが密集している理由を確かめようとした。

 ようやく人混みの最前列に出る。しかし、皆が見つめているのは何の変哲もない一つのつり革。いや、その先の座っている乗客だろうか。そう思い目をやるが、そこに座しているおじさんも、その左右に座る乗客も至って普通の一般人。そして彼らの目線もやはりそのつり革に注がれている。

 このつり革に何があったんだろう。疑問は解消されていないが、俺はこのつり革をつかみたい、次第にそう思うようになっていた。こちとらこれから仕事なんだ。少しでも楽に通勤をしたい。座ることができればもちろん望ましいが、そんな機会はめったに訪れたりはしない。ならば、人だかりができるようないわくつきのつり革でも、それにつかまって会社の最寄り駅まで過ごしたほうがいい。別に左右のつり革をつかんでいる人や目の前に座っている人もおかしくはなさそうだし。

 そう思い、一歩前に出てそのつり革に手を伸ばそうとした瞬間、つり革の握り部分━━プラスチックの部分で構成されている中の空間。そのつり革はいわゆる三角形だったので、ちょうど角の丸い「おにぎり」のような形だった。そこが、キラキラと紫色の光を放ち始めた。

作品名:空墓所から 作家名:六色塔