空墓所から
34.修正作業
深夜2時。
誰もが寝静まり、今、目を覚ましているのは残業をしている人と夜勤の人ぐらいという時刻。そんな皆が休息をむさぼっている時間に、今年31歳になる寛夫は二階の自室のベッドに腰掛けて、その時を待っていた。
「…………」
彼は暗闇の中、時計自身の小さな明かりを利用して表示されている時刻を視認し、予定の時刻となったことを確認する。そして明かりをつけることもせずに自室の中で着替えると、点灯していない懐中電灯を持って扉を開け、音も立てずにそろそろと階段を降りだした。
1階についた寛夫は、これまたほとんど音を立てずに用便を済ますと、両親の眠る寝室をよそにリビングへと忍び込み、そこでもこっそりと静かにタンスの引き出しを開く。お目当ては他でもない。自身の産みの母が所有する財布、その中身。彼はその金額をあらためると、一瞬だけ申し訳無さそうな顔つきをしたが、すぐに意を決して千円札を2枚抜き取り、財布を元の位置に戻した。
数分後、寛夫は手に持った懐中電灯を点けずに自宅近くの通りを歩いていた。誰もいやしない深夜の住宅街に面した細い道。左右に並んでいる家々の光もすっかり消えうせ、かろうじて街頭の明かりだけが光源となって周囲を照らし続けている。そのような寂しい状況にも関わらず、彼は目をしっかりと前方に見据えて暗い道を踏みしめ、着実に道を進んでいく。まるで、運命に導かれ己の使命を果たそうとする勇敢な者のように。
数分後、いつの間にか彼の存在はまぶしい光の前にたどり着いていた。言わずもがな、24時間営業しているコンビニの前。彼のズボンのポケットには、先ほど母の財布から抜き取った千円札2枚が折りたたまれて突っ込まれている。
おおかたその金で、スナック菓子やカップ麺、酒などを購い、自室で暴飲暴食にふけりながら、ゲームに興じたり、ネットのコンテンツを消費したりするのだろう。母の金をくすね、こんな深夜にコンビニに向かう。明らかに働いていないであろう男の金の使い道など、しょせんそんなものに決まっている。
案の定、寛夫はコンビニの自動ドアをくぐり、客となった。そして、いくつかの商品を手に取るとレジの少し前の待機場所に立ち、棚に商品を補充している店員に会計を求め、急ぐ様子で声をかけた。
店員はあわててレジの内側に入り、寛夫に「どうぞ」と声をかけて購入を促す。寛夫はそのレジの前にすたすたと歩み寄り、胸に抱えたいくつかの商品を店員の前にさらけ出した。それらは、軍手、木工用ボンド、荷作り用のひも、そして懐中電灯用と思われる電池。店員はそれらを手早くバーコードに通し、有料のレジ袋に放り込む。寛夫は会計を終え、そのレジ袋をぶっきらぼうにつかむと足早にコンビニを出ていった。
思惑とは少しばかり違う奇妙な買い物を済ませた寛夫。だが、その足取りも奇妙で、彼は来た道とは違う道を歩み始めた。家とはまったく違う方角、相変わらず力強い足取りでそちらへ歩き出し、10分弱の時間がたった。
目的地と思しき場所の前に立つ寛夫の目の前には、広大な林が広がっていた。明かりもなくあたりは真の闇。寛夫はそれに相対するように直立し、コンビニの袋から先ほど購入した電池を取り出して懐中電灯に詰め込み、初めてその光を頼った。
懐中電灯で周囲を照らしながら、寛夫は林の中をずんずんと進んでいく。公道ではなく林中に場を移しても、彼の行軍はいささかも迷いがない。
やがて、寛夫の足が止まる。どうやらここが目的地らしい。
その場所は、この林の中でも特異と言っていい場所だった。ここ以外の木々はその天然さ、自然さをまとった姿を惜しげもなくさらけ出しているのに対し、その一角だけは人工的━━不器用ながらも誰かが手を加えている様子があることが見て取れる。
寛夫はその場所全体を見回して笑みを浮かべると、そこの入り口らしき場所をくぐって中に入った。そして内部を見回し、いささか不格好な部分や修正が必要な部分、改良を加えるべき部分などを探して確認し始める。ダンボールが敷かれている場所、木の股にひもをくくりつけて雨よけの布を張っている場所。無造作に転がっているペットボトルや空き缶、お菓子の袋……。
寛夫はそれらの場所をそれとなく自然の結果だと思わせるような、もしくはここの主たちが他の人間が入り込んだとは気づかないようなそれとない形で、修正、補強を施していく。ダンボールが敷かれているところは、恐らくみんなで座る場所だろう。そう考え、その下を少しばかり掘り返して土をならし、柔らかく座りやすい土をこしらえる。雨よけの布を張っている枝を荷造りひもなどで補強する。この場所で楽しく食べたであろうお菓子やジュースの残骸、その他のゴミをまとめて袋に入れて持ち帰る。
懐中電灯の光の中で、寛夫はそれらの作業を手早くもていねいに遂行していく。
今、寛夫が保全している人工物━━それは小学生男子の大半、もしかしたら女子もかもしれない、親や先生の手が届かない場所を持つことができ、さらに友人たちと内緒の結束をも深められる子どもならではの文化装置、秘密基地。今宵も、誰のものともしれぬその基地の保全と存続に尽力した寛夫は、作業を終えると心地よい疲れとともにその林を後にした。
帰途、かつて自分が小学生のときに、友人たちと作った秘密基地の思い出が寛夫の脳内によみがえる。認めたくはないが、あの場所で友と過ごした時間が自分の人生の絶頂期だったのかもしれない。そう思うと、少しばかり街灯の光がにじんでくる。しかし、だからこそ今の子どもたちには一分、一秒でも長く、あの甘美で素晴らしい時間を味わってほしい。寛夫は30の齢をこえて、生産性のない雌伏の日々を過ごしながら、そういう思いに至っていた。そして、その思いを実行に移すべく、深夜に人知れずこのような行動を続けているのだ。
あの角を曲がればもう自宅だ。夜が明けたら、また母に財布の金を抜き取ったことをとがめられるのだろう。この隠れた篤志家は暗い気分になったが、これも必要経費だ、致し方ないという考えでそれを振り切る。だが、その心中では、短時間でもいいからバイトを始めて、基地補修経費の安定的な確保と、苦労させてしまっている両親に少しでも恩返しができないかなあという思いが芽生えてきていた。