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人生×リキュール ルジェ・クレーム・ド・カシス

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 バンドの人気が加速し、ライブに動員できる客数が増えるにつれ、俺たちは大箱のステージに立つようになっていた。俺にレコード会社からオファーが来たのはそんな頃。ソロデビューできるチャンスだった。だが、
 自分の演奏はまだまだヒヨッコだと感じていた俺は、二の足を踏む。
 未だ自分の思うような音が出し切れてはいない。そんな状態でのデビューは線香花火になってしまうのではないだろうか。
 確かに以前とは比べ物にならないレベルに上達はしていると自負しているが、足りないのだ。
 俺の脳裏には左手三本男の演奏がこびり付き、片時も離れなかった。
 あの音の渦。巻き込まれるほどの勢い。程遠い。手が届かない。まだダメだ。全然足りない。そう思った俺はレコード会社の担当者に断りの電話を入れた。
「本当にいいんですか? あなたの歳的に、これが最後のチャンスかもしれませんよ?」
「いいんだ。俺の目指す頂は別にある」
 担当者はしばしの沈黙のあと「そうですか、でも諦めませんから」と捨て台詞を残して電話を切った。
 俺の頭には左手三本男の演奏が鳴り響いている。
 目指す頂。それが、なんだかもわからないが。迷いはない。
 俺は男の部屋を訪れることしか考えていなかった。
 そうして更に一年が過ぎた。
 バンドの人気は鰻上りで、今やジャズインディーズバンドと言えば一番にバンド名が出るほど認知度が高くなったのだ。
 俺の鍛錬は相変わらず続いている。
 実は、二、三日前の夜に意を決して男の部屋を訪れた。
 けれど、扉は閉ざされていて、冷たい木枯らしが吹き抜けていく以外の音は皆無。
 たまたまタイミングが悪かったのだ。そういうことにした。
 それから数日後の初雪が振った夜。再び訪れた。
 しかし、扉は壁画なのかと錯覚してしまうほど頑固に閉ざされたまま。ピアノの音は疎か、雪に音を吸い込まれた冷えた夜気に包囲されただけだった。それから何度訪れても、同じ景色だ。
 まるで、初めっから部屋などなかったかのように。美しいインペリアル・セナトールも、酔っぱらい左手三本指男の素晴らしいピアノの音もなにもかもが、俺の世界から忽然と消えてしまった。
 俺は少なからず動揺した。男が消えてしまったということは、俺の目標が閉ざされたのだ。
 俺は、左手三本男に思い知らせてやりたかった。幻などではない。俺は今でも男の旋律をこんなにハッキリと覚えているのだから。
 腑に落ちない俺に関係なく容赦なく月日は過ぎ、ビルは取り壊されてしまった。
 目標を失った俺はしかし、独自の音を追い求める作業を止めることはなかった。
 左手三本男が天才だったのは言うまでもない。俺は天才ではない。だが、凡人は凡人なりに、なにかを突き詰めたい。それだけだ。
 断り続けていたレコード会社の担当者が、痺れを切らしたように日に何件もの着信を入れてくるようになった。どうしても契約をしたいと言う。
 左手三本男の喪失感を抱えていた俺は、とても混乱し迷っていたのでダラダラと保留にしていた。
 そんなある日。
 リハーサル最中のこと。
 鍵盤に向かう俺の鼻腔を甘酸っぱい香りが掠めた。
 忘れるはずがない。
 この香りはあの男の・・・俺はタイミングを見て周囲を確認する。
 まさか。こんなところに、左手三本男が現れるはずもない。バーカウンターを併設している会場。照明は落とされていない。けれど、顔馴染みのスタッフばかり。あの男らしき人物はいない。
 香りは強くなる。どこだ? どこから漂ってくるんだ?
 ふっと横を見ると、ベーシストが演奏の合間合間になにか飲んでいるのが目についた。ゴブレットには黒っぽい液体。おい、と声をかける。
「それ、なに飲んでんだ?」
 ベーシストは不愉快そうな皺を眉間に寄せて、無精髭だらけの口につけていたグラスを離す。次いで目の前に掲げて検分するように眺め始めた。
「キール」
「その甘酸っぱい匂い・・・」
「白ワインにクレーム・ド・カシス」言葉少なに切り上げると、ベースのチューニングを確かめ始めた。
 左手三本男は、ずっとキールを飲んでいたのか。甘酸っぱい香りに、いつかの月夜の光景が懐かしく炙り出された。
 今となっては幻になってしまった八本指をした天才ピアニスト。
 あの夜、インペリアル・セナトールと共に現れたあいつが、三本しかない左手で俺を殴ってキールの香りを纏った転機を突きつけてきたのだ。俺は足下に視線を滑らせた。変えた靴紐はもう解けることはない。
「おい!そこ、もっと左!左に寄せて!違う!わっかんねーかなぁ、左だよ!ひじゃり!」
 照明の位置を修正していたスタッフの怒声が響いた。俺ははっと息を飲みながら顔を上げた。
 声の主は、よく日に焼けた彫りの深くて毛深い男。どうやらこの会場の責任者らしかった。
 ひじゃりは、左? そういえば、母の出身地は沖縄だ。全てが繋がった気がした。 
『ひじゃりさん』もしかしたら、あの男がそうだったのかもしれない。そうでなくても、そうであって欲しい。俺は、そんなことを巡らせながら、エフェクターの効果を確認するために屈んでいるベーシストのニット帽に声をかけた。
「なぁ、その、その酒さ・・・」
 名前が出てこず、グラスに向かってグルグル指を回している俺を一瞥したベーシストが、細い目を少しだけ見開いて面倒臭そうに立ち上がると、それと同じグラスを指した。
「迷子になってたジイさんがくれた」
「おい、そのジイさん、指全部あったか?」
 強い口調で問い質す恰好になってしまった俺に、冷やっとした眼差しを向けながら「あったけど、なに?」と答えるベーシスト。その眉間には不審さと不機嫌さを適量で混ぜ合わせたような皺が寄っている。
「いや、ならいいんだ。サンキュー」
 気まずさを隠そうとして視線を泳がせる俺を、ベーシストはじっと凝視し続けている。
「それで、ジイさん大丈夫だったのか?」
「途中まで送ったから」
「あぁそっかぁー・・・」沈黙。
 尻窄まりの意味のないやり取りをしているうちに、言いたかったなにかは行方不明だ。
 ベーシストの微動だにしない達観した視線に試されているように感じた俺は、小さな子どものように足踏みしたり頭や頬を無駄に掻いてみたりと、緊張を落ち着かせようと試みた。いや、その前にどうして俺は、この腐れ縁相手に緊張なんてしているのだろう。柄にもないなと、今までの俺なら即シャットダウンするところだ。俺はずっと一人でも平気だったんだから。
 入れ替わりの激しいバンドメンバーに必要以上の情なんてない。
 馴れ合い。労い合い。付き合い。どれも嫌いだった。
 孤独こそがより良い曲を音を産み出す源だと信じていた。だけど、
 違ったんだ。
 俺は、真に孤独であるということが、どういうことなのかを理解していなかった。
 そのくせ孤独を気取って自ら孤立していたんだ。あの男に出会ってようやく気付くことができた。
 孤独と孤立は、全く別物なのだ。
 父かもしれなかったあの三本指の天才ピアニストは、間違いなく孤独だった。
 真の孤独によって研ぎ澄まされた美しい音。そして、この世のものならざる旋律。
 紛れもなく天才だった。
 俺は天才にはなれない。