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人生×リキュール ルジェ・クレーム・ド・カシス

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 だけど、今まで弾く姿勢が悪いなんて注意されたことなんて一度もないんだぞ。俺は間違ってない。あのおっさんの頭がおかしいだけだ。そうだ。きっとそうだ。そうに違いない。そうに違いないんだ・・・
 その日のライブ終了後、俺は楽屋に引き上げていくメンバーの後ろからやや遅れて歩くベーシストを捕まえた。
 唐突なことで、やや不審そうな顔をしたベーシストは、なに? と不機嫌そうに聞いてきた。
「いや、あのさ。俺ってピアノ弾く時、どんな感じ? なのかなーと」
「チューブマンみたい」それだけ言って去ろうとする。俺はその腕を引き止めて、いや姿勢とかさと食い下がる。ベーシストは心底面倒臭いと主張する皺を眉間に寄せて振り返ると「猫背」と吐き捨てた。
 ベーシストが去った後も、ガツンと頭を殴られたような衝撃が残る。猫背ってことは、そっか。やっぱ姿勢悪いのか俺は。長年やってたのに全く気付かなかったなんて。
 その夜、俺にピアノの基礎を叩き込んでくれた先生の元を訊ねた。久しぶりだねぇと驚く先生に、改めて基礎を見直したい旨をプライドをかなぐり捨てて伝える。先生は腕を組んで頷いた。
「いい機会かもね」
 基本に返ると成る程、俺のピアノを弾く姿勢はだいぶ自己流になっているのだとわかった。
 姿勢が安定しないと手に力が入りづらくなり、結果として音に多彩な表情をつけにくくなってしまう。俺はジャズをベースとした自由な曲作りをしていたので、クラシックの弾き方を知らず知らずのうちに湾曲させてしまったらしい。
 姿勢を正すと、ジェットコースターに乗っていたような視界が落ち着いてクリアになり、指の一つ一つに神経を集中できた。すると、音が変わる。練習音源を録音し、後で聞き返すと、何十回となく聞いている曲にハッとすることが出てきた。音の粒子の立ち上がりがスッキリとしていて、水滴が寄り集まってゆっくりと広がっていくように滑らかだ。俺の演奏はこんな感じだったのだろうか? 戸惑う自分に気付いて苦笑いしながら練習する日々が何ヶ月か流れた。
 ある夜のことだ。
 寒さが薄まった濡れ羽色の空には切った爪のように細い三日月がかかっている。
 俺はいつかのビルへと向かっていた。どうしても、あの酔っぱらい男に受けた屈辱を払拭したかったのだ。所謂リベンジ。裏通りを歩きながら、いつのまにか見ず知らずの父親のことを思い出していた。
 母親が亡くなってから、俺は母親が残した『ひじゃりさん』という名の音楽家を探した。
 『ひじゃり』という苗字だと思ったからだ。探しまくった。だが、見つからなかった。見つけたかった。俺の中で何かが見つけ出せと命じた。そのためにプロのピアニストを目指すようになったのかもしれない。プロになれば様々な情報が入手できる。こうして思い返してみると、なんとも健気なことだ。自分たちを捨てた父に会ってどうしようとしたのか。存在自体があやふやゆえに、憎悪の対象にもなりきれなかった父というもの。今となっては掠れてしまった感情の理解は困難だった。
 父が本当に音楽家だったのかすら怪しいと気付いたのは30代。
 バカげている。忘れようと決めた。それが、最近になって小さな泡のように浮かび上がってくる。
 ・・・だからどうした。それがどうした。俺には関係ない。
 いつかの扉は開いていた。
 以前と違うのは、開け放された部屋から光が溢れて出していたことだ。これは意外なことだった。
 俺はそっと中を覗き見る。
 いつかの男がいた。扉を背にピアノに寄りかかり、時々黒っぽい液体が入った瓶を呷っている。
 皺くちゃのシャツとスラックス。見えない旋律をなぞるように、ベートーヴェンそっくりの白髪頭が揺れている。今日も酔っぱらいだ。
 俺は怒鳴られるのを覚悟で扉を叩いた。が、気付かれない。再度叩く。強めに。男はヘッドフォンでもしているかの如く依然として気付かない。
 再三叩く。更に声をかける。
 男の頭の揺れが不自然な角度に止まる。来るか。俺は息を飲む。
 五分が経過した。男は壊れた人形のように停止したままだ。
 十分が経過した。痺れを切らした俺は一歩踏み込んだ。途端に、ピアノの音が鳴り響く。男が嵐のように弾き始めたのだ。
 男の八本の指に搔き鳴らされた音が部屋に反響しながら俺を音の渦に搦め捕っていく。
 川の流れのように荒々しい旋律に揉まれながら、見え隠れする物悲しさと切なさを感じる。かと思うと唐突に、柔らかく慈悲深い深い森のような空間に包まれるのだ。
 あぁ、細胞単位で連れて行かれる。桁違いだ。俺のピアノなんて。男の足下にも及ばない。初心者だ。バイエルだ。
 俺は、いつまでも感じていたい気持ちを抑えこんで、その場から逃げ出した。
 ダメだダメだダメだ。走り去りながら、己の身の程を初めて恥じた。解けた靴紐を踏んで転びかかった。まただ。肝心なところでいつも解ける。まるで己の未熟さのように思えてしまう。いくら満足していても、このままじゃいけないんだ。忌々しい靴紐を雑に片結びにした俺は再び疾走し始めた。

「最近、奏法変わったんすね。なんかあったんすか?」
 ライブ終了後、ギタリストが声をかけてきた。
 俺は、おかしいか? と慌てて聞き返してしまう。そのアクションが意外だったようで、ギタリストは眉毛を上げて目を見開いた。
「や、オレ、ピアノのことはよくわかんないんすけど。前と比べて格段に音が引き締まってるっつーか、埋もれてないっつーか、なんつーかいいと思うっす」そう言って視線を泳がせながらアッシュグレー色の頭を掻いた。
「そっか。サンキュー」己の短所を徹底的に見直し改善に取り組み続けている効果が出ているのが嬉しかった。
 左手三本男には敵わないと思い知った夜。
 それでも俺は、少しでも近付きたくて試行錯誤を始めた。
 自分の演奏映像を見直して、あらゆる角度から検証し、それを元に特訓メニューを組んだ。
 左手三本男の演奏は、真似できるような代物ではない。完成されている。完全に男の軌跡や人生そのものだった。あの男だからなし得られているのだ。あの音は、あの旋律は、左手三本男にしか奏でられない。唯一無二のものだ。だから、俺は俺にしか出せない音を、旋律を追求していくしかないと気付いた。
 俺の人生は大した物じゃないが、幸か不幸か人並み以上の苦労をしてきた。それがそのまま生かせるとは思わないが、酔いどれ男にしか奏でられない音があるように、俺にしか出せない音だってあっていいはずだ。そうやって半年。
 なかなか思い通りにはならない。が、その苦労が楽しい。こんなに音楽に熱中するなんて、いつぶりだろう。俺はどれだけ音楽に対して怠惰だったのだろうか。プロという肩書きに胡座をかいて進化しようとせず、諦めを言い訳に怠けていたのだ。いったい何様のつもりだったのだろうか。完全に井戸の中の蛙だった。
 自分なりの音が出せるようになった暁には、再びあの部屋を訪れ、あの素晴らしいインペリアル・セナトールを弾きたい。そして、あの酔っぱらいを唸らせたい。俺は、その日を目標に据えた。
 半年が過ぎ、一年が過ぎていった。
 俺は相変わらず鍛錬の毎日。