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人生×リキュール ルジェ・クレーム・ド・カシス

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 何度か繰り返しているうちに、弾きたくなってきた。俺は、イスに座ると両手を鍵盤の上にそっと置いてみる。指先が微かに震えているが寒いからではない。武者震いだ。こんな上等のピアノを弾くのは久しぶりだから。
 なにを弾こうかと考えて、ショパンの「舟歌」にした。この美しいグランドピアノに相応しい曲だろう。そして、俺はゆっくりと弾き始めた。
 弾き進めるうち、どこからともなく甘い匂いが漂い始めた。
 もしかしたら、この部屋の主は女性かもしれないと俺に勝手な妄想をさせる匂いだ。このグランドピアノに似た艶容な美女が、わざと扉を開けっぱなしにして、俺のように耳の肥えたピアニストを誘う。そして、月の光の下、美しい曲を弾かせる。聞き終えると、美女はお礼にといって自らの体を・・・欲望塗れの想像が暴走して悦に入っている俺の指は、気持ち悪い生き物のように動いていく。
 曲に合わせた美女との妄想が中盤に差し掛かった時。彼女もといピアノのボディを、瓶のようなもので乱暴に叩く音が鳴り響いた。
「やめろやめろやめろ!耳が腐る!下手くそがっ!」
 いつからいたのか、俺に相対するピアノの屋根にガラス瓶を握った男がだらしなく頬杖をついている。
 男は、忌々しそうに俺を睨むと、お前はなんだ!と酒臭い声で怒鳴った。
「貴様は誰だ!盗人め!人の部屋に無断で上がり込みやがって!通報してやる!」
「申し訳ないです!俺、泥棒とかじゃありません。通りかかったら、美しいピアノが見えたもので、つい・・・」
 警察沙汰になったら大変だと慌てて詫びる俺を、男はどうだかなと鼻を鳴らして見据えた。
「大方、おれが留守になるのを見計らって入り込んだんだろう!」
「目的もなにも。留守だったらなんで扉を開けっ放しにしてたんですか?」俺はつい矛盾をついてしまった。
「ふん。おれが自分の部屋の扉を開けっ放しにしようとしまいと、貴様には関係ないだろうが。そもそも、開いているからという理由で無断で他人の部屋に入っていいわけがない。不法侵入というんだ。そういうのをな。常識もわからんのか。わからんから盗人なのだからな。この盗人野郎が!」男の剣幕はますます激しくなるばかり。
「それは・・・すみません。でも、俺はなにも盗んでませんよ」
「このインペリアル・セナトールの音を、盗んだろうが!」
 俺は唖然とした。
 インペリアル・セナトールだって?
 世界三大ピアノブランドの一つ。ベーゼルドルファーの最高級フラッグシップモデルじゃないか。確か現在、日本には三台しか存在しない。俺は、慌てて目を凝らすと左端の鍵盤を確かめた。ドからソまでの白鍵が黒く塗られている。インペリアルの特徴、8オクターブ分の九十七鍵ある証拠だ。
 ははぁーどうりであの音の美しさかぁー・・・俺は感嘆の溜め息をつくと同時に、そんな最高峰ピアノのボディを瓶で叩いた男の神経を疑った。
「さあ、返せ!今すぐ返せ!さもなければ通報してやる!」
 無茶だ。いくらフラグシップモデルの最高峰ピアノとは言っても、この男はなにを言っているんだ。先程の奇行にしても、アル中で狂っているのかもしれない。関わり合いになるのは危険だ。俺はジワジワと後退る。
「貴様が、インペリアル・セナトールの音を穢したのだ!素人が気安く触るな!」カチンときた。いや、俺はと否定しかけたところを、男にまさかとは思うが、と遮られた。
「ショパンの舟歌をクソの音でゴミみたいな駄作に変えやがって。プロ、じゃねぇよなあ?」
「・・・はい。違います」思わず隠してしまった。情けないが、プロのくせにとバカにされたら、プライドが傷付く上に、立ち直れそうもないだろう。男は、だよなあーと酒臭い息を撒き散らして下品な大笑いをした。
「おれぁあんな汚らしく下品なショパン、初めて聞いたぞ。そもそも音の出し方からしてなってねぇ!バイエルからやり直したほうがいいな!」話しながら酒瓶を呷る男の左手には指が三本しかなかった。
「・・・音の出し方が悪いって、どういう」「だーかーらーなってねーんだよ!なにもかも!てんでダメだ!てんでなってねぇ!姿勢からしてな!」俺が堪忍袋を押さえて問い掛けようとした言葉が遮られた上にショックを受ける。ダメだ。話にならない。俺は逃げ出そうと思い、両掌を見せながら扉の方に後退る。
「ショパンっつーのは!こう弾くんだ!」酒瓶を足下に置いた男は、鍵盤に指を乗せた。
 驚いた。
 先程までの男の乱雑な印象はどこへやら、透き通るような繊細な音が流れ出して、空気が、変わった。
 ・・・これだ!俺は、この音に導かれてここまで来たんだ。流れるような指の動き、男の表情は穏やかで品位すら漂っている。三本しかない左手とは思えない旋律はどこまでも静かに美しく、月の光に柔らかく絡まっていくようだ。これまでの人生で何度も聞いたはずのショパンが、新鮮な響きで俺の鼓膜に浸透してくる。
 素晴らしい音色。
 音のさざ波に心地好く揺られたまま永遠にこうしてここで聞き続けていたい。病み付きになる。そんな演奏だった。
「ブラボー!素晴らしい演奏でした!」男の演奏が終わると、拍手と共に感動が俺の口から飛び出した。
 男は当たり前だとばかりに鼻を鳴らすと、ぐいっと酒瓶を呷る。甘い匂いの正体は、男が飲んでいる酒らしかった。口許を拭った男は、目が合った俺に向かって怪訝な表情を浮かべる。
「なんだ貴様は。まだそこにいたのか? さっさと出て行け!」
 俺は追われるように退散した。が、帰り道でも三本指の男の演奏が耳について離れなかった。

 俺のうちは、母子家庭だった。
 母は、ヤクルトとスナックを掛け持ちして、一生懸命俺を育ててくれたのだ。
 俺にピアノの素質があるとわかった小学生の時。誰より喜んでピアノを習いにいかせてくれたのも母だ。後に、父の音楽の才能を受け継いだのだと聞いた。俺の父は蒸発したらしい。どこの誰なのか、詳しい素性は知らない。ただ音楽をしていた。それだけだ。それと、癌に侵された母が死ぬ間際に発した謎の言葉『ひじゃりさん』。

「左手が三本指のピアニスト? さぁ知らないなぁ」
 謎のピアニストと出会った次の日、知り合いのクラシックマニアに聞いてみたが、男が何者なのかはわからなかった。
 障害を抱えているにも関わらず、あれほどの腕を持つピアニスト。しかも、日本に三台しかないインペリアル・セナトールの内の一台の持ち主だ。誰か知っているはずだと、行きつけの楽器店にもあたってみたが収穫はなかった。
 一体あの男は何者なのだ? 謎は解けないままに時間だけが過ぎようとしていたが、俺の心に引っ掛かっていたことがある。
『なってねーんだよ!なにもかも!てんでダメだ!てんでなってねー!姿勢からしてな!』バイエルからやり直せと言われた男の痛烈な言葉だ。
 ったく、ふざけんなよ。俺はこう見えてもプロなんだぞ。それを。バイエルって子どもかよ。あのショパンのどこがいけなかったんだ。俺的にはけっこう上手く弾けてたほうなのに。ショーウィンドウに映った自分の姿を確認した。
 確かに猫背だ。