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人生×リキュール ルジェ・クレーム・ド・カシス

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解けかかった靴紐に気付いて屈む。
 どんなにきつく結んでも、ライブが終わると緩んでいることが多いブーツ。だが、外出する時に自然と選んでしまう俺のお気に入りだ。
 きゅっと結び直して立ち上がる。
 ライブ後の楽屋は、興奮冷めやらぬテンションに、無事に終わった安堵やミスってしまった落ち込みが少しずつ混じる騒然さ。見慣れた光景だ。
 俺はメンバーに向かって片手を上げた。
「お先に」
「え? 打ち上げ、行かないんすか?」立ち上がったのは、最近入った新米ギタリスト。
 まだ二十代なだけあって、爽やかで刺のある音を搔き鳴らす男だ。ジャズは初めてと言う割りには、しっかりと馴染んでいる。
「ん、ちょっとやぶ用がな」
「でも、毎回毎回やぶ用じゃないっすか。新年一発目のライブなんすから、たまには飲みましょうよ」
 ドラムとサックスが、いいからいいから、とギタリストの両腕を掴み強制的に座らせる。
 俺は、悪いねお疲れーと手を振って楽屋を後にする。
 廊下で腐れ縁のベーシストの男とすれ違った。
 担当楽器に似て寡黙が取り柄のようなヤツは、感情の読めない鋭い視線を投げてよこす。それを見て見ぬ振りでやり過ごし、逃れるように夜の街に転がり出た。染み付いた煙草の匂いのように、ギタリストの不満の声とベーシストの一瞥が纏わり付いているような気がする。ピースを加えた口から深い溜め息が漏れた。
 仕方ないだろ。どうせ、このあとの打ち上げで、同じ会話をして進歩のない演奏を労い合って親睦を深めるんだろ。嫌なんだ。いつまで経っても注目されない立場や馴れ合い。俺はもううんざりなんだよ。
 吐き出したピースの煙が、上弦の月に照らされた紫紺色の空を曖昧に白濁させる。
 今年で五十。社会人なら定年が見えてくる歳だ。長年コツコツと勤めてきて晴れてお役御免。だが俺は・・・音楽の道に入って三十年以上になるっていうのに、知名度がないどころか功績一つ残せていない。
 焦っている。
 いや、絶望の手前。というのが正直なところだ。
 引退していった過去のメンバーの顔が、次々と浮かんでは消えていく。
 どいつもこいつも家庭の事情っていう大層な理由を掲げて辞めていったっけな。無名とは言っても何十年も音楽で食ってたヤツが今更辞めたところでマトモな職が見つかるとは思えないと呆れたが、よもやこの歳になって自分が迷う事になろうとは思わなかった。
 こんなはずじゃなかったんだ。
 俺はとっくにレコード会社と契約してデビューしていたはずだった。そう、自分の人生設計内では。
 予定外だったのは、自分の作る曲が時代錯誤だということだった。
 オーディションに応募しても審査員に首を捻られるばかり。
 だからなんだ。いいじゃないか。これが俺の個性なんだ。でも、それだけじゃ通らなかった。どうしても予選突破ができなかった。そんなことを何十年も続けてこの様。不遇をかこつわけではない。むしろ拘泥せぬよう、うまく感情を切り離してきた。そんなところばかり極めてしまった己を哀れみこそすれ、愚かとは思わない。
 心のどこかで自分に落ち度や改善点などはなく、ただただ審査員の目がないだけなのだと思い込んでいた。思い込まなければ、足下が崩れ落ちるような気がするから。
 だが、引き際は肝心だ。特にこの世界は。
 趣味ならともかく、なまじ本腰入れてるとタイミングが難しい。そうやってズルズルしてきた。
 別に音楽が嫌いになったわけじゃない。食っていけないほど貧窮しているわけでもない。長年応援してくれるファンだってついているし、ライブハウスではそこそこの人気だ。そう。そこそこ。全てにおいて、そこそこなんだ。
 オレの演奏も、毎回のライブも、バンドのメンバーも、盛り上がりも。可もなく不可もなく。そこそこ。だけど、シビアな音楽の世界、それじゃダメなんだ。いかに注目されてメジャーデビューできるかどうか。極論を言うと、たったそれだけなんだ。それを夢見て活動していると言っても過言じゃない。
 才能があるヤツは速い段階で引き抜かれていく。何十年やっていても才能の欠片がなければ、レコード会社曰く芽は出ない。
 商売道具でもある細く長い指を広げる。
 ピアノを弾くために与えられた最高の手。それが子どもの頃から俺への褒め言葉だった。
 どんなに難解な曲もすんなり弾けた俺は、いつも称賛を浴び羨ましがられていたもんだ。
 指を一本ずつ折り曲げてゆっくりと握る。だけど、プロを目指す音楽の世界には、そんな経歴のヤツ腐るほどいたんだ。
 口にくわっぱなしのピースが、いつのまにか短くなっている。足下で擦り付けて投げ捨ててから、仰いだ夜空いっぱいに白い息を吐き出した。途端に身震いが起こる。
 正月飾りがちらほら残る街に、初詣帰りなのか晴れ晴れした空気を纏った群集が流れていく。
 今夜は冷えそうだ。さっさと帰ろうと、俺は黒いコートの襟を立て猫背になって駅への道を辿る。
 いくらか歩いたところで、ふと彼の耳朶を透き通ったピアノの音色が通り過ぎた、気がした。
 職業柄、音には敏い。だが、喧騒でごった返した街に、雪のひとひらのようなその旋律は、認識する間を与えず儚く溶けてしまった。
 幻聴かもしれない。
 そう思った瞬間再び音を拾った。俺の足は、自然と音色を追う。
 透明なその音は、途切れながらも続き、俺の一足毎に輪郭を持ち始める。
 誘われるままに裏通りにある古いビルを俺が目にしたのが合図だったかのように、ぷつりと音は消えた。
 陰気な影に覆われている厳めしいビルだ。俺は入り口らしき穴に立った。
 塗装がはげ落ちた天井の罅割れから、築年数が見て取れるようだ。
 入り口から差込む月明かりに照らされた階段の影や、チラシが一枚も挟まっていない整然とした集合ポストからは静謐な雰囲気が漂う。
 先程の音は、ほんとうにここから? 俺は階段を見つめて逡巡する。
 不法侵入という言葉が浮かんで消えたが、結局階段に足をかけた。
 上弦の明るい月に見守られながら吹抜けの廊下を進む。
 しばらく歩くと、開け放された扉があった。
 このクソ寒いのに。どこの酔狂な輩かと肩を竦めた瞬間、扉の奥に広がるベルベットのような闇の中、月の光が艶やかなグランドピアノの輪郭をなぞっているのが視界に飛び込んできた。
 なんて艶容で美しいピアノなんだ・・・気付くと俺は、吸い寄せられるように扉を潜り、グランドピアノの前に佇んでいた。
 周りは闇。
 壁一面に設えられた窓から差し込む月明かりが、ピアノの他には何も見えない部屋のだだっ広さを浮かび上がらせている。影に沈んだ部屋の四方に人の気配は感じられない。
 どんな音がするのだろう?
 興味を抑えられなくなった俺はピアノに近付き、慎重に蓋を開ける。そして、小鳥に触れるようにそっと鍵盤を押した。
 よく調律されたラの音が一つ部屋に響く。それは朝の空気のように澄んだラだった。
 俺は余韻を味わう。もう一回押してみる。柔らかいタッチといい、素晴らしい。