Blackmark
矢野は店長然とした七三分けの頭を撫でつけながら、言った。おれは白状するように、佐々木の顔を見ながら言った。
「あのコーナー、よく攻めとるんよな」
矢野はしばらく記憶を辿っていたが、すぐ正解に辿り着いたように眉間へしわを寄せた。
「赤いトンネルか?」
「そんな名前なんですか、そこで現役時代の話を聞かせてもらってたんです」
佐々木はそう言って、弁当を並べ終えた。事務の松木さんから代金を受け取ってポーチへ仕舞うと、矢野に言った。
「毎度です」
「あのコーナーは、中速と高速の複合や」
矢野は指でコーナーの形をなぞりながら言った。若い頃から、何でも目の前に描かないと気が済まない性質で、ワンダーシビックのボンネットに用紙を広げては、自分が取るべきラインを考えていた。おれは言った。
「福川のソアラが初めて、時速百キロに届いた。覚えてるか?」
「覚えてるよ。お前のレックスがどんだけ頑張っても高速で百キロいかんかったんも、覚えてるぞ」
矢野が笑い、おれが笑うのと同時に佐々木も笑った。
「レックスって、スバルの軽自動車ですか?」
「そう、金欠腹ペコ小僧の時代もあってな」
おれが答えて、しばらく車の話で盛り上がった後、佐々木が次の配達に向かうためにぺこりと頭を下げ、サンバーバンに戻っていった。松木さんが呆れたようにおれと矢野を見ながら、笑った。
「ほんまに、男の子やなあ」
矢野が笑い、おれも愛想笑いを返した。そう、こういった話題は年齢を重ねても、中々変化しない。会議が終わり、帰り際に矢野がおれの肩を掴んで呼び止めた。
「お前、あの界隈に顔出してんのか?」
「最近はな」
おれはそう答えると、手を振り払った。
家の縁側になっている方は、リフォーム前は道路に面していて、いわば表向きの玄関口だった。おれのスカイラインが前を向いて停まっていて、ちょうど車検で指摘される箇所が出だしたころ。二〇一〇年だった。洋一が大学に入るのと同時に免許を取り、おれは初めて『ドライバー』としてサーキットへ連れて行った。洋一からすれば、子供のころからよく知る馴染みの走行会。最初はフロントガラス越しに前がかろうじて見えるぐらいだったが、洋一は幼いころから車が好きで、サーキットをスカイラインで軽く流し、少しだけ車体を横に向けたりして遊んでいるだけで、ほとんど景色の見えない助手席で揺られながら喜んでいた。買い物や遊園地、送り迎え。そんな普通のことを日常生活の中で普通にこなしていた車が獰猛に唸り、コーナーで甲高いスキール音を鳴らす。それは他の家族にない『特権』だった。
免許を取ったら、次は自分の車。おれはインテグラを薦めたが、洋一は後輪駆動に強くこだわり、ロードスターを選んだ。型式はNB8C。色は鮮やかな青色で、軽い車体に百七十馬力を発揮するエンジン。素直で、腕を磨くにはぴったりの車。
青のロードスターは、おれの黒いスカイラインセダンの隣に停まるようになった。そこまで大きいとは言えない家に、趣味の車が二台。その様子は大人げないながら、どこか誇らしくもあった。洋一はジムカーナから始めて、ミニサーキットのタイムアタックを中心に活動し始めた。人当たりのいい性格だったから次々に仲間が増えていき、よく写真を見せてもらった。
おれは開いていない缶コーヒーを片手に、縁側に座った。リフォームされた庭で壁に囲まれ、逃げ場を失ったスカイラインは見るも無残な有様だ。雨ざらしで車体のあちこちは塗料が剥がれて錆びているし、ヘッドライトは病気にかかったように真っ白に曇っている。タイヤは四輪とも空気が抜けきっていて、車体全体が土に還る日を待っているようだ。佐々木が見たらその扱いの酷さに驚くだろう。
しかし、おれと車の関係を表わすのに、これ以上ふさわしい状態はない。
サーキットで洋一が撮った写真。当時、そこに写る仲間の車を見ていて、ふと気づいたことがあった。サーキットでは見かけない改造がされたA31セフィーロが混ざっていて、色は鮮やかな紫色。いわゆる、ドリフト走行に特化された車だ。洋一に訊くと、あまりサーキットには来ない『友達の友達』だと言って笑った。
『こいつ、地元が近いから。近所でよく集まってるらしい』
何となく、場所の想像はついた。このセフィーロが急な角度をつけて、あのコーナーを亀のようなスピードでドリフトしながら抜けていくのだろう。中速コーナーのイン側にはギャラリーが集まり、フルカウンターを当てて抜ける車体を動画に収める。
『おれは、ドリフトには興味ないわ』
洋一はそう言って笑っていたが、バイトが終わってから帰って来るまでの時間が少しずつ遅くなっていき、あのコーナーで缶コーヒー片手にたむろしているのだろうと想像していた。当時はドリフト走行をする車がひっきりなしに訪れていて、タイプは違えど車好きで溢れ返っていたから、話題には困らなかっただろう。
おれは上着を羽織ると、トコットに乗り込んだ。例のコーナーまでは家から三十分ほどで、辿り着くまでの道は思い出すまでもない。今日はギャラリーがおらず、一周した後トコットをいつもの場所に停めると、おれは缶コーヒーを二本助手席に並べた。
ロードスターが家に来てから一年が経ち、タイヤを四本とも新品に交換したころ。洋一のバイトの帰りが遅くなるのは、恒例になっていた。そしてあの日は、別のエリアで走り屋のミーティングがあり、コーナーが空いている日だった。後から分かったことだが、今のおれのように誰もいなくて拍子抜けしたギャラリーが語ったところによると、その青いロードスターに乗る若者は一周して帰って来るなり、こう言ったらしい。
『なんか、伝説みたいになってて。昔は、ここを時速百キロで抜ける鉄仮面がおったらしい』
それをもし、洋一との会話の中で耳にできていたら。二度とあの場所へ行くなと止めただろう。どれだけ危険なことかは、一番よく知っているつもりだ。何故なら、その鉄仮面のドライバーは、おれなのだから。若いころの『走り屋』としてのエピソードを徹底して話さなかったのは、公道での危険行動に興味を持たせないためだった。しかし、若いころのおれは、当時あの場にいた誰かの記憶に残っていた。そして、それが命取りになった。
ギャラリー曰く、三周目でロードスターは帰ってこなかった。何かが倒壊したような激突音だけが聞こえたらしい。脱出でバランスを失ったロードスターは街路樹に巻き付くように激突し、真っ二つに折れていた。
警察の実況見分によると、時速は百十キロ。洋一は即死だった。
車に関わってきた人間同士のみ通じる、様々な用語。NB8C、R34、A31、S14、GC8、FD3S。クラッチ蹴り、タコる、スリップアングル。走りに関わる全てのこと。それを頭から消し去った後、最愛の家族をこの世から送り出すための手続きを終えた。矢野曰く気丈に振舞っていたらしいが、洋一が死んだ日から葬式まで、おれには音の記憶がない。無声映画のように、映像だけが焼き付いている。腹が減ることにも、眠気が欠伸を引き起こすことにも、自分が生きようとする反応全てにこみ上げた怒りだけが、音の代わりに刻まれている。