元禄浪漫紀行(41)~(50)
第四十四話 次郎
俺の名前は秋夫。親父から一文字もらったらしい。とはいえ、それも本当の名かはわからねぇそうだ。お袋はそう言って、さみしそうな顔をしていた。
“お前のおとっつぁんはね、日本橋で倒れてるとこをあたしが助けたんだけど…どこから来たのやら、何年経っても言わねぇのさ。本当に分からないわけはないんだけどね…自分のおっかさんを心配するような独り言を聞いた事もある。でもね、言わないんだよ…”
そう言っているお袋は、本当にさみしそうだった。俺がその話を聞いたのは、十の時だ。七つ八つ九つと俺は歳を重ね、十になって“つ離れ”をしたから、もう話そうとでも思ったんだろう。
親父が出所が確かじゃねぇってのは、誰も不満に思っちゃいないみたいだった。何せ親父は気が利いて、お袋にもいつもヘコヘコして愛想笑いばっかりしてやがった。稼ぎはお袋の方が良いに決まってるし、だから親父はお袋の機嫌を取りにさっさか働いて、掃除に洗濯肩揉み買い物、小間物屋の相手までしてやがる。
そんなに甲斐甲斐しい、見てて情けなくなってくるような親父の姿を見て、息子の俺はいつも馬鹿馬鹿しかった。
江戸市中は、いつも強盗だの土蔵破りだのが横行して、しょっちゅう火事があったし、茶々を入れる話に事欠かない。俺は、退屈がてら行った知り合いの家で、ちょうどやってた博奕に嵌った。
金がなくても場が立つ日には、家の物を借りなきゃいけない事もあった。
悪い事とは知りながらも、お袋の羽織も、手あぶり火鉢も、親父の煙管も。でも、それにしたってまだまだ小さい悪事だ。
俺は、悪党になるつもりだった。本当に小さな頃、親父に連れられて見に行った芝居で見た山賊は、自由だった。
金が無くなったら、追い剥ぎだのゆすりだのでうんと儲けて、食い物屋で銭なんか払わないで、博奕と女、それから着る物に金を賭けた生き方がしたい。いつの日か、そう夢見るようになった。
そんな風に思いながら暮らしていたある日、一人の男に会った。
俺はその年、十八だった。“そろそろ俺も悪党になろうかね”なんて思い回していた頃で、その日、俺はツイていた。
俺達は、町内の札付きが集まって銭の取りっこをしているだけで、いつも決まって、一番大きな家を持ってる悪旦那の家でやっていた。
その日は、俺が初めてやる“手本引き”だった。
仲間内で一番年下の俺は、仲間にやり方を教わり、おっかなびっくり手を出すと、繰り札を三度も当てた。俺は、あと一度当てられれば一両を手にするってところだ。
一枚目はピン。つまり、一だ。どういう訳か、手本引きでは「一」を「いち」とは言わないらしい。
二枚目は六。三枚目は五だった。みんな当たった。
でも、胴元だった仲間が次の札を出し、横に居た合力(ごうりき)役が盛り立てようとして、「さあ!張った張った!」と叫んだ時だ。
「おい!お上だ!逃げろ!」
それは、襖の向こうから聴こえてきた、ほんの囁くような声だった。でも、その一声でその場は一気に修羅場と化した。
部屋の中にはその時、五人の男達が居た。胴元役は善治(ぜんじ)。合力役だった次郎(じろう)は、自分も賭けると言って、開けるまで札を見なかった。あとは張子(はりこ)の成介(なりすけ)、悪旦那の与一(よいち)に、俺だ。
そいつら全員が一瞬浮足立ったかと思うと、裏口目がけて我先にと逃げ出した。もちろん俺もそうした。
でも、不安で後ろを振り返った時、振り上げられた十手の影を、もう一つの影が受け止めて突っ返すのが見えた。
怖くて怖くて、それからはずっと駆けて家へ戻ったが、“あいつらはどうなったか”よりも、“自分の顔を見られたのでは”という気持ちの方が勝った。
作品名:元禄浪漫紀行(41)~(50) 作家名:桐生甘太郎