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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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元禄浪漫紀行(41)~(50)

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「やめる?どうしてさ。そろばんがわかんなくなっちまったのかい?」

夕食の席に、秋夫は居なかった。でも、おりんは指南所に行きたくない理由は言わずに、最後に膳を重ねて食器を洗いに立った時にも、一言だけ「やめる」と言った。

俺達夫婦は、おりんに強く言い聞かせて、これ以上何かを望む気持ちにはなれなかった。

相変わらず着た切りの、紺が褪せた丈の短い着物からは細い素足がにゅうっと出て、おりんは洗い場に向かい少し咳をしながら、三つ重ねた膳を持って立っていた。その痛々しい姿を見ていると、無理に何かを言う事は出来なかった。

俺は、「そうか。でも行きたくなったら、またいつでも行けるからな」とだけ言い、おりんはそれに、「うん」と返した。


しばらく俺は、おりんが指南所をやめたがった理由が分からなかった。でも、ある時、珍しく家で秋夫と向かい合って煙草を吸っていて、理由を思い出したのだ。


その日の昼、秋夫は家に帰って来て、まずは一服煙草を吸った。刻みを気障な喧嘩煙管にちょいちょいと詰めて、火鉢へ近づけ、はあっと煙を吐く。そして、表の戸をちょっと振り返った。

「なぁ。なんであいつぁ出かけてねえんだ?」

おりんは、その時井戸端に洗濯をしに行っていた。それを、帰ってきた時に秋夫は見たんだろう。不思議そうに聞いてきた秋夫に、俺はこう答えた。

「わからねえ。急に指南所を「やめる」って言ってな、それっきり行かねえよ」

「もったいねえなぁ。俺よか出来がいいんだからよ」

そう言って秋夫は笑った。その時の秋夫の、「俺よか出来がいい」という言葉を聴いて、俺は初めて、“もしや”と思った。

“おりんは秋夫に気を遣ったのか…?いや、まさか…”

そして、おりんの宿題を俺がほめていた時、おりんが顔を真っ赤にして俯いていたのを思い出した。あの時、おりんはもしかしたら、“兄に恥をかかせた”と思い込んだのかもしれない。そうだ。ほかに考えようがない。

おりんは、優しい。優しすぎるほどだ。だから多分、兄より優秀にはなりたくなかった。

でも、それはおりんにとって良い事ではないし、秋夫に何か良い事が起こるわけでもない。

俺は、目の前でのんびりと煙草をふかす秋夫にそんな事は言えなかった。かと言って、おりんに問い質した所で訳は話してもらえないだろう。俺はどうしたらいいのか分からないまま、時折ぽっと灰の舞い上がる長火鉢を覗き込んでいた。