元禄浪漫紀行(41)~(50)
第四十三話 おりん
おりんが六つになった頃、おりんも手習指南所に通い始めたけど、その前からおりんは読み書きを知っていた。
俺は、「空風秋兵衛」として、書き物をしている。出来上がった本を受け取ってくると、おりんはそれを読んでもらいたがり、俺の膝によく乗ってきた。
中には子供に向かない読み物もあったけど、大体は、なんてことのない日々が過ぎて行くだけの戯作だ。
俺がゆっくりと読んでやると、おりんは面白がって、口元を両手で押さえながら、くすくす笑っていた。それからおりんは、いつも決まって、「もういっぺん読んで」とねだるのだった。
指南所でどうしているかとおかねが聞くと、おりんは、「先生にほめられた」と言う事が多かった。七つの時におりんが書いた物を持ち帰って来た時、いつの間にか楷書を書けるようになっていて、俺達はびっくりしてしまった。
楷書は、武士階級が読み書きに使うものだ。だから庶民は普通は習わない。でも、おりんは先生に「やってみたい」と願い出て、教わったのだと言った。
俺達はおりんの頭を撫でて、「すごいじゃねえか」、「えらいねえお前さんは」と、ほめた。するとおりんは、「来週から、そろばんもやるんだ」と言ったので、ますます驚いた。
だけど、おりんも結局、指南所は二年でやめてしまった。原因に心当たりはある。
ある日、おりんが持ち帰ってきた宿題を終わらせ、俺が見てやっていた時、俺の後ろには、十四になった秋夫が、煙管をプカプカやっていた。
「おりん、こりゃあ綺麗な字だな。難しいのも書けるようになってきたなぁ」
俺がそう言うと、おりんはにこにこして俺を見上げた。その時、後ろからおりんの宿題に影が差して、振り向くと秋夫も宿題の紙を覗き込んでおり、ぽつっととこう言った。
「はん、俺にゃさっぱり読めねえ」
「そりゃおめえは習ってねえからさ。習えば読める」
俺がそう言っても、秋夫は、「めんどくせぇよ」と言って唇をすぼめ、ふーっと細長く煙を吐いた。
俺がおりんの方に顔を戻すと、おりんはなぜかがっくりと俯いており、顔を真っ赤にしていた。
「どうした、おりん」
そう聞いても、おりんは黙って首を振るだけで、そこから二三日してから、急に「もうやめる」と言ったのだ。
作品名:元禄浪漫紀行(41)~(50) 作家名:桐生甘太郎