元禄浪漫紀行(41)~(50)
おりんの嫁入りの二日前、俺は秋夫を飲み屋へ誘っていった。
「なあ、男同士の話があるから、飲み屋へ行こう」
おかねがはばかりに、おりんが納豆屋の相手をしに出ている時、俺は秋夫にそう声を掛けた。秋夫は嫌そうな顔をしていたけど、俺が「なあ」と繰り返すと、渋々立ち上がった。
「俺達はちょいと出かけてくる。すぐに戻るから、先に夕飯を食べててくれ」
「あらそうかい」
長屋から出る前に、はばかりから出てきたおかねへそう声を掛けた。おりんは、長屋の奥へ入って行った納豆屋を追いかけて行ったようだった。
近辺にある飲み屋はどれも騒がしくてせせこましい。どこを選んでも大して変わりはないので、俺達は一番近い店へちょっと歩いた。
「おう秋夫ぉ。おとっつぁんも一緒かい」
「おう、にごりを三合くれやぁ」
店の親父に迎えられ、俺は一礼して、近在の飲み屋をいつも渡り歩いている秋夫に注文を任せた。
「今日は蛸があるぜ」
「じゃあそいつを。煮つけか?」
「おうよ、待ってな」
すぐに温められた蛸の煮つけが出され、俺達は湯呑へ酒を注いだ。それから俺は秋夫へこう聞く。秋夫は店に吊るされた魚を気にしている振りをしていた。
「なあ、お前、なんだってそんなに気に入らなさそうなんだ?」
俺が聞いた事の意味は、秋夫にも分かったらしい。でも、秋夫はしばらく俺を見つめてから下を向いた。そして、こんな事を言ったのだ。
「…昔、利助を脅した事がある」
「脅したって」
俺は長い事秋夫の父親をやっていたので、大して驚かなかった。でも、秋夫は片手を顔に押し当てて悔しそうな顔になり、それからその手を前に放り出した。
「ちょっと金に困ったって時に、脅かして、金を巻き上げたんだ…それを奴が覚えてたら…」
俺は“そういう事なら”と合点がいき、秋夫にこう言った。
「覚えてる」
俺が言った事に、秋夫は驚いて顔を上げた。その時初めて秋夫は、怯えた顔をしていた。
「そういうのは人間は忘れねえもんだ。お前、今から行って謝ってきな」
秋夫はバツが悪そうに横を向いていたが、持っていた湯呑を置いて「ちょっと行ってくる」と言い席を立った。俺はしばらく一人で酒を飲んでいた。
“俺が江戸時代に来た時は、何も持ってなかった。それが、子供を持ち、娘を嫁に出す事になるとはな…息子に説教も…”
しみじみと色々な事を思い出しながら、俺は酒を飲み、すぐに酔いが回ってきたので、蛸の煮つけを味わって食べた。
小半刻もすると秋夫は戻ってきた。
黙って座敷に戻ってきた秋夫は、まずは湯呑から酒をぐぐっと煽って、ぷはあと息を吐く。
「ふいーっ。堪ったもんじゃねえ。あんなに極まりの悪ぃもんはねえぜ」
俺は笑って、秋夫の湯呑に酒を注いでやる。
「まあ、謝るってのはそういうもんだ。でも、すっきりしただろ?」
そう言うと秋夫は顔を赤くして、「まあな」と小さく息を吐いた。
「“自分は気にしてない、謝ってもらえたらいいだけで、おりんに何を言うつもりもない”、とよ。まったく、良い奴なんだか頼りにならないんだか」
自分が悪い事をしたというのに、それを騒ぎ立てない利助の事が気に入らないらしい秋夫に、俺は思わず笑ってしまった。
作品名:元禄浪漫紀行(41)~(50) 作家名:桐生甘太郎