元禄浪漫紀行(41)~(50)
それからふた月ほどして、俺達両親は、大家さんから家に呼ばれた。
どうしたんだろう、どうしたんだろうねと言い合いながら大家さんの家に着いてみると、一人、若い男の人が、おかみさんとお茶を飲んでいた。
俺達が何か聞く前に、その若いのはハッとした顔になって、立ち上がって俺達に深々と頭を下げる。
「まあ、あの…」
おかねが困ってしまって頭を下げると、大家さんが「あがって。ばあさん、羊羹を」と言った。
俺達は若いのと向かい合って、大家さんはその若いのの隣に座っていた。
誰もなかなか喋らなかったけど、大家さんが「ほれ」と若いのの肩をつつくと、その人は座布団を降りて、俺達にまた頭を下げ、こう言った。
「自分は、しがない煙草屋です。名は利助と言います。父から、代替わりをする時に嫁をもらえもらえと言われて…でも、他はみんな嫌です…もし、もしお嫌でなければ…お宅様にいらっしゃいます、おりんさんを…!」
“おりんさんを”と口に出した途端、利助と言った人は顔を真っ赤にして、それきり俯いたまま、茫然と放心してしまったように見えた。
俺達は呼ばれた訳も分かり、大家さんの顔を見る。
「…というわけなんだ。どうだい、おりんの意見を聞いてみては。よく店先で顔を合わせて、何度か話をしたみたいだから」
そこで俺は、煙草屋から帰って来たおりんを思い出し、“ああ、あの時のが利助さんか”と思った。
利助さんはそのままほとんど何も言えなくなって、顔を赤くして俯いてばかりだったけど、「とにかく今夜聞いてみるから」と話した。利助さんは、「どうぞよろしくお願い致します。申し訳ございません」と、心配になるくらい声を震わせ、相変わらずまっかっかだった。
その晩、秋夫とおりんが花札をしているところに、おかねが話し掛けた。おかねからの方が、おりんも遠慮をせずに本当の事が言えるだろうと、俺達は話し合っていたのだ。
「ねえおりん。お前、ちょっと話があるから。秋夫、花札を片付けな」
「なんでぇ」
返事をしたのは秋夫で、花札を片付けたのはおりんだった。
それからおりんは正座をして、鏡台の前に居たおかねに向かい合う。
俺達は軽く目くばせをして、おかねはなるべくゆっくりこう言った。
「今日ね、大家さんへ呼ばれて行ったら、煙草屋の利助さんというお人が来ていてね」
おかねがそう言った時、おりんは急に脇を見て、俺達は顔が見えなくなった。秋夫はおりんの顔が見える壁際にもたれていたけど、おりんを見てびっくりしているようだった。
「それで、利助さんの言うには、お前を家に迎えたいって言うんだ。お嫁にだよ」
そこでおかねは少し黙っていた。おりんに考えさせるために、「どうだい?」と聞くのはずっと後にしようと決めていたのだ。おりんは人一倍遠慮をするから、すぐに聞いたら、「ええ、いいです」と無条件に答えかねない。
おりんは何も言わないし、俺達の顔も見なかった。おかねは次に話そうと決めていた事を喋り出す。
「あちらはね、お前と二、三、話をしただけだし、お前はそんな事考えてなかっただろうから、断ろうと思えば断れるんだ。だからお前、心配おしでないよ」
そこでおりんは顔を上げ、おかねを見つめた。俺はその横顔を見て、はっきりと分かったのだ。おかねにも分かっただろう。
おかねの言った事に反論しようとしたんだろう。おりんは頬を真っ赤にして弱弱しく眉根を寄せているのに、大きく開いた目はとても悲しそうだった。「断れる」ことを喜んでいるような顔じゃなかった。俺とおかねはもう一度、緊張気味に目くばせをする。秋夫は脇をみていて、どこか憮然とした表情だった。
「おりん、お前、嫌じゃないのかい?」
そう聞かれて、おりんはみるみるうちにもっともっと赤くなっていったけど、俯いて、首を横に振った。
「でも、なんとも思ってないんじゃないのかい?」
もはや「なんとも思っていない」娘の取る仕草ではないけど、あえておかねは念を押したんだろう。
その後おりんが言った事は、俺達家族にはすぐに合点がいった。おりんはまた秋夫の方へ向いて俯き、口元をで指で隠し、もごもごと喋った。
「そんな事…あたしからなんて言えやしない…」
そう言って、困らせられているようにずっと真っ赤なまま、畳に目を落としているおりんを見て、俺達はほっとした。
作品名:元禄浪漫紀行(41)~(50) 作家名:桐生甘太郎