裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
央明を娘だと信じるからこそ、国王は科挙で首席合格したチュソンの求婚を快諾した。すべて娘のために良かれと思った親心によるものだ。このままずっと王妃に敵視されながら後宮で籠の鳥として飼い殺しにされるより、大空で自由に羽ばたけるようにー。国王は父として幸薄い娘の幸福をひたすら願った。降嫁は王女が鳥籠から解き放たれるには、格好の口実であった。
しかし。央明の本当の自由は、どこにもない。央明が性別を偽り続けている限り、彼はどこにゆこうと、自由に生きられはしない。
それは哀しい運命(さだめ)だった。
央明の憂いに満ちた声が聞こえた。
「もし私がどこかで生命を落としたとしても、国の安泰のためになります」
「馬鹿なことを言うものではない」
チュソンの語調がやや厳しくなった。
「だが、事実です。表向きは継承権はないはずなのに、いまだに中殿さまは私が世子を脅かさないかと警戒し、私を疎んじています。隙あらば私を亡き者にし、後顧の憂いを取り除きたいと思っているでしょう」
チュソンは唸った。
「まさか、幾ら王妃でもそこまではしないでしょう」
央明の複雑な表情から、彼自身はそう思っていないのは判った。
「ゆえに、私はあなたの妻にはなれないのです」
央明が頭を下げた。
「結局、あなたを騙して傷つけてしまったこと、どうか許して下さい」
少し迷ってから、央明は言葉を継ぐ。
「いつか私はあなたに言いましたね。男だとか女だとか関係なく、友達になれたら良いと。あの言葉は偽りではなく、まさしく本心です。あなたのような聡明で心の広い方と心ゆくまでこの国の在り方、未来について語り合えれば、どんなに愉しいだろうと夢見ました」
チュソンが静かに言った。
「もう、夢見ては下さらないのですか?」
央明がフと笑った。
「真実が知れてしまった以上、このままというわけにはゆきません。これ以上、茶番を続ける必要はないのですから、私たちは離縁するべきです。あなたは健やかな男性です。これからちゃんとしたご妻女を迎え、跡取りを儲けて家門を存続させなくては」
チュソンは静謐なまなざしを央明に向ける。
「一つだけ問いたい。あなたにとって、この結婚は茶番でしかなかったのですか?」
央明が押し黙った。切なげな眼でチュソンを見つめ、吐息混じりに言う。
「正直に言えば、最初は茶番でしかありませんでした。だって、あなたも男で、私も同じ男なのですよ? 男同士で結婚するなぞ、およそ常識では考えられないことです。男の身で婚礼衣装を着て嘉礼を挙げるなぞ、屈辱以外の何ものでもないと憤りさえ感じていました」
チュソンの心に落胆が重くのしかかった。央明の立場からすれば、もっともだと思う傍ら、初恋の女性と添い遂げた幸福に一人で酔いしれていた自分がいっそ馬鹿のように思えてくる。
「ですが」
唐突に発せられた言葉に、チュソンは弾かれたように顔を上げた。
央明の漆黒の夜を溶かし込んだ瞳が潤んでいる。
「旦那さまという方を知れば知るほど、憤りは消えました。たとえ女人だと信じ切っているからとはいえ、あなたは私に屋敷内では自由にして良いとおっしゃり、好きなように生きて欲しいのだとおっしゃった。漢籍を読むことにも理解を示して下さった。旦那さまを知るにつけ、やはり友達でいられたら、こんな方の傍にずっといられたらと思うようになりました」
チュソンは自分でも信じられないことを言った。
「では、私は少しは期待を持っていても良いのですね?」
「期待ーですか」
央明が怪訝な表情になった。
「失礼ですが、ご質問の意味が判りません」
チュソンは飲み込みの悪い生徒に教える教師のような口調で繰り返した。
「つまり、あなたの中にまだ私への想いが少しくらいは残っていると考えても良い?」
央明がこれ以上ないほどに眼を見開いた。
「私は男ですよ?」
何を馬鹿なことを言っているのだと言いたげだ。しかし、チュソンは頓着しなかった。
「そんなことは言われなくても、理解しています。ですが、私にも言い分はあります」
「言い分?」
チュソンは央明の瞳を見つめ、深く頷いた。
「私は離縁する気は一切ない」
央明の美しい顔に狼狽が走った。
「何故ですか? 私の秘密を知った以上、結婚生活を続けても無意味だと判ったはずです」
チュソンは静かだが、確信に満ちた口調で言った。
「どこが無意味なんですか? そんなことは続けてみなければ判らないし、私自身が決めることだ。それとも、あなたご自身がもう私とは別れたいとお考えなのでしょうか」
央明がうつむき、小さくかぶりを振った。
「私はずっと旦那さまの傍にいたいです。でも、私はあなたの邪魔にはなりたくない。私がいては殿下の手前、側室を迎えるのもはばかられるでしょうし」
チュソンが笑みを含んだ声で言った。
「私はこれから先も側室を持つつもりはありませんよ」
央明の眼が丸くなる。
「何故ですか? 私は子は産めません。仮に偽りの結婚生活を続けるとしても、旦那さまは側室を迎えて跡取りを儲けなければならないでしょう」
チュソンは穏やかな声音で言った。
「どれだけ愛し合っていても、この世には子に恵まれない夫婦もいる」
央明が可愛らしい口を尖らせた。
「私たちは愛し合っているわけでは」
チュソンが笑った。
「ええ、そうですね。確かに、あなたから私はまだ熱烈な愛の告白を聞いた試しはない。ですが、私は努力します」
「努力って」
央明は信じられないものでも見るかのような眼でチュソンを見ている。
「私の気持ちは変わりません」
ひと息に言い放つと、央明が息を呑んだ。
チュソンは続けた。
「今し方、あなたはご自分が私を傷つけてしまったと言いましたね」
彼はつと手を伸ばし、央明の髪に触れた。
「確かに傷つかなかったと言えば嘘になる。さりながら、あなた自身の罪ではないのは私もよく承知しています。あなたは最初から、この結婚に乗り気ではなかった。婚約期間中にも、私から辞退するように何度も説得してきた。むしろ、私はそんなあなたを押し切る形で想いを遂げたのです」
央明は何も言わなかった。揺れる瞳でチュソンを見つめていた。
「あなたにすれば、私を傷つける前に、すべてを無かったことにしたいと考えていたのでしょうね。だからこそ、新居を見にいった日、私に言ったのでしょう」
ー私と結婚したら、後悔することになりますよ。
今も忘れられない衝撃的なひと言だ。しかし、真実を知ってしまえば、無理の無い科白だった。
央明はひたすらチュソンを気遣い、彼が負う心の傷ができるだけ小さいようにと願っていたのだから。そして、その方法は結婚を断念するしかなかった。
それでも、チュソンは自らの想いに忠実に進んだ。
央明が消え入るような声で言った。
「では、あなたは後悔していないとでも?」
チュソンは深く頷いた。
「後悔などしていません」
央明が信じられないといったげに首を振る。
「男の癖に女のなりをしている私を見て、妙だと思わないのですか?」
彼は労りのこもったまなざしで妻を見つめた。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ