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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 央明はまた唇を軽く噛んだ。ぼんやりと妻を見つめながら、チュソンは、そういえばと思い出していた。
 央明と二人、連れ立って下町を歩いたのは五月半ばであった。下町はパク・ジアンと名乗っていた央明と最初に出逢った懐かしい場所でもある。二人の始まりの場所ともいえた。
 初恋の少女と晴れて結ばれ、夫婦の逢瀬を想い出の場所で果たすことができた。あの日、チュソンは幸福の絶頂にいた。
 露店で買い物をした後、央明を連れて若い女性に大人気だという茶寮(カフェ)を訪れたのだ。あのときも、央明が会話中に唇を噛み、形の良い唇に薄く血が滲んでいた。チュソンは咄嗟に央明の唇の血を指で拭い取り、その指を銜えた。
 茶寮には大勢の客がいた。衆人環視の中で堂々と我ながらよくぞあんな大胆な行為ができたものだと、今更ながらに信じられない。
 けれど、一方では、あの瞬間がもう随分と遠い昔のように思えてならない。あの頃の我が身は何も知らなかった。央明の大きな秘密も、やがて自分が知ることになる過酷な現実も。
 だが、と彼は思った。現実は現実として受け止めねばならない。叶うことなら、知らずに済みたかったと過去ばかりを懐かしむのは愚か者のすることだ。何故なら、幾ら懐かしもうとも、現実は変えられないからだ。変えられないのなら、現実をあるがままに受け止め、乗り越えて前に進むしかないではないか。
 チュソンは徐々に本来の冷静さを取り戻しつつあるのが自分でも判った。
 央明は嫌々をするように小さく首を振り、ゆっくりと話し出した。
「これは私が物心ついた時、乳母から聞かされた話です」
 そもそもの事の発端が起きたのは、央明が産声を上げた当日だった。
 その半月近く前、王妃が第四子となる王子を出産したが、難産の末、赤児は死産になっていた。央明の母の淑媛は王妃とは対照的で、すごぶる安産であった。
 陣痛が来てから、わずか一刻半余りで央明が生まれた。産所となった御殿は安堵の中に静かな歓びに包まれ、淑媛(スクウォン)は産褥に横たわりつつも産湯を使って錦のおくるに包まれて連れられてきた我が子を見て、歓びの涙を流したのだ。
ー可愛い。
 と、小さな娘のすべらかな頬を撫で、紅葉のような手のひらをそっと大切そうに握った。淑媛の出産を今かと待ちわびていた国王にも無事王女生誕の知らせが届き、その日の中に早速、お渡りがあった。国王は生まれたばかりの娘を腕に抱き、男泣きに泣いた。
 やはり、ほぼ相前後して生まれた王妃の御子が儚くなったことを思い出していたに相違なかった。
ーこの子の目鼻立ちの整っておることよ。恐らく、そなたに似たのだな。大きくなった暁には、どれほどの男を泣かせるであろうか。朕(わたし)は娘に求婚する男たちの行列をやきもきしながら眺める羽目になりそうだ。
 王は笑いながら、無事出産を終えた淑媛を労った。
 国王が大殿に戻った後、淑媛はほどなく眠りに落ちた。無理もない、安産とはいえ、女にとっては大きな務めを果たしたのである。
 生まれたばかりの赤児は、別室ですやすやと眠っていた。
 夕刻、保母尚宮が一時、王女の傍を離れた間に事件は起こった。見知らぬ若い女官が王女の室に忍び込み、王女を縊り殺そうとしていたのだ。運良く保母尚宮が戻ってきて現場を発見したから事なきを得たものの、後少し遅ければ、幼い生命は摘み取られていたはずだ。
 室の扉を開けた乳母は仰天した。見かけぬ女官が赤児の折れそうな細首に両手をかけていたところだった。乳母は絶叫した。
 騒ぎを聞きつけた他の女官たちがわらわらと駆けつけてきて、狼藉者は慌てて逃げ出した。
 乳母はすぐに淑媛に事の次第を報告した。話を聞き終えた淑媛は姫を抱きしめて号泣した。
ー吾子が儚くなっていれば、私も生きてはいられぬところであった。
 燭台の光がほの暗く室内を照らし出している中、主従は黙り込んで見つめ合った。このような残酷な所業ができるのは誰か? 二人共に同じ人物の顔を思い描いていた。
 淑媛は口には出さなかったけれど、このときには一大決心をしていたのだ。
 翌日、淑媛はまだ産後の疲れも癒えぬ身体に鞭打って中宮殿を訪ねた。
 すべての人払いをした後、王妃が淑媛に意味ありげに問うた。
ー王女は健やかに育っておるか?
ーお陰さまにて、つつがなく生い立っております。
 と、王妃が柳眉をひそめて言ったのだ。
ー妙な噂が流れておる。
ー妙な噂と申しますと?
 刹那、淑媛は嫌な汗が腋に滲んだ。それでも、必死に平静を装いつつ王妃を下座から見つめた。
 王妃が扇を口許にかざし、陰に籠もった笑いを浮かべた。
ー私と違い、そなたは初めての出産だ。ゆえに、こちらからも出産経験のある心利いた者たちをそちらへ手伝いに赴かせたのだが、どういうわけか、王女の沐浴のときだけは中宮殿の女官たちを寄せ付けぬとな。
 淑媛は烈しく首を振った。
ー滅相もございません。そのときはたまたまであったと存じます。
 王妃が紅い紅を塗った唇を引き上げた。
ーそうか? では、早速、今日の沐浴からは中宮殿から遣わした者たちを立ち会わせるように。
 瞬間、淑媛は身体が冷えるのを感じた。
 王妃は、あの秘密を知っている!
ーそれは。
 口ごもる淑媛に、王妃が笑いながら言った。
ーどうした? やはり、我に仕える者どもが王女の沐浴に立ち会ってはまずいことでもあるのか?
 淑媛はこの時点で腹を括った。王妃が既に真実を知るからには、事実をねじ曲げることはできない。
 淑媛は王妃を真っすぐに見つめた。
ー中殿さま(チユンジヨンマーマ)は何をお望みなのでしょう。
 今までおどおどと怯えるばかりだった淑媛が居直ったーように、王妃には見えたかもしれない。
 王妃は少したじろぎ、また不敵な笑みで淑媛を見据えた。
ー世子(セジヤ)になるのは、私の生みし王子のみだ。賤しいそなたの産んだ子をこの国の世継ぎに立てることはできぬ。そなたが見てはならぬ夢を見る限り、赤児の生命は保証できぬ。
 王妃の眼には剣呑な光が揺らめいていた。嫉妬、羨望、憎悪。同時期に生まれた我が子は既にこの世の者ではないのに、何故、淑媛の子だけが生きているのか。理不尽な恨み辛みを弱い母子に向けたのだ。
 美しいはずの王妃の眼許は引きつり、夜叉のように見えた。
 淑媛はその場に平伏した。
ーお誓い申し上げます。王子は王女として育て、けして秘密は口外いたしません。できるだけ人目につかぬように育て、生涯を娘として過ごさせます。ゆえに、どうか生命だけは取らないで下さいませ。
 王妃がフンと鼻を鳴らした。
ーやはり、我が手の者が見たのは間違いなかったということか。
 刹那、淑媛は悟った。王女の沐浴は保母尚宮のみで行っているはずだったけれど、どこから王妃の手の者が見ていたに相違なかった。ここでシラを切り通すこともできなくはなかった。しかし、見られている以上、下手に隠し通すのはかえって危険だ。
 王妃は幾度でも刺客を放ち、幼い我が子を殺そうとするだろう。だから、淑媛は王妃と取引をした。