裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
自分が求めてきた初恋の少女は、架空の存在だった。そのことは嫌になるほど理解したつもりだ。ただ、まんまと騙されたチュソンとしては一つだけ訊ねたいことがあった。
「十年前、私は都の下町で初めてあなたと出逢った。あのときも、あなたは少女のなりをしていた」
央明がかすかに頷く。チュソンは央明の反応を確かめながら、一語一語ゆっくりと続けた。
「王子さま(ワンジヤマーマ)が身許がバレるのを怖れ、王女のなりをした。一見、納得できるような理由ではありますが、何も、そこまで手の込んだ芝居を打つ必要はない。せいぜい両班の子弟ではなく、庶民の子どもに見えるように変装すれば良いだけだ。にも拘わらず、あなたは最初から女児になりすましていた。つまりは、そこまでする必要性があったという風に理解してよろしいのですね」
央明がかすかに頷いた。
「私が男ながら女として生きてこざるを得なかった理由は、まさにそこあります」
チュソンが鋭い視線を央明に向けた。
「何故とお訊きしても良いですか?」
央明は思案する様子の後、逆に問い返した。
「ここから先は、ご存じない方があなたのためかもしれせんよ」
チュソンが自棄のように言った。
「八つのときから十年間、恋い焦がれてきた女人はこの世に存在しないと知ったばかりです。今になって、これ以上の打撃を受けるとは思えません」
それに、と、彼は烈しい口調で言った。
「少なくとも、私は騙された当事者です。何がどうなっているのか、どこまでが真実で、どこまでが真っ赤な偽りなのかを知る権利はあると思いますがね。もっとも、真実と呼べるものが私たちの間に存在すればの話ではありますが」
央明は長い吐息を吐いた。
「あなたには似合いません」
チュソンは眼をまたたかせた。
「どういう意味ですか?」
央明が小首を傾げた。
「私に対して、あなたはずっと優しくして下さいました。日陰の王女と呼ばれていても、あなただけは何の偏見も無く接して下さいましたよね。王女らしくなく化粧師になりたいと話した後、女だてらに漢籍を読んでいたのを見たときでさえ、あなたは嫌な顔一つなさらなかった」
央明は、そのとき交わしたやりとりを繰り返した。
ー旦那さまは度量の広いお方なのですね。
ー私は、あなたにはいつもあなたらしくいて欲しいと願っている。この屋敷にいる限り、やりたいことを我慢したり、隠し立てする必要はないんだよ。あなたがやりたいと思うことをやれば良いし、好きなように生きれば良い。
央明がかすかに笑んだ。花がほろこぶような笑顔に、チュソンはやはり眼が離せなかった。
ー馬鹿な、正気を失ったか、ナ・チュソン。眼の間にいるのは女じゃない、正真正銘の男なんだぞ!
自分に言い聞かせても、たいした意味はなさなかった。我ながら信じがたいことだけれど、憧れの女人の正体が知れてもなお、チュソンの央明への想いはさほどどころか、まったく変わっていないようなのだ。
名誉のために断っておくが、チュソンは絶対に男色ではない。両班の中には、たまに美しい少年を愛でる寵童趣味の男がいるとは話に聞いているものの、彼には到底受け入れがたい性癖でしかなかった。
なのに、央明が女ではないと知った今、彼への恋情にはいささかの変化もない。気持ちが冷めたとか、興味が無くなったということがないのだ。何より、チュソン自身がそんな自分に信じられない想いでいた。
むしろ、恋い焦がれた央明がずっと抱え続けていた秘密とは、そも何なのか? 知りたい欲求に抗えない。
男児を女児と偽り育てるのは、生(なま)中(なか)ではない。しかも、市井で生きる民ならともかく、仮にも国王の娘だ。そこから導き出されるのはー。
央明はそのときの会話をまだ思い出しているのか、美しい面は、ほのかな笑みをとどめたままだ。
「私の眼には、旦那さまは春風のように見えました」
同性であると判っても、央明が自分を?旦那さま?と変わりなく呼ぶことに、何故かチュソンはホッとしていた。普通なら、ここは気持ち悪いとか、冗談ではないと思うところなのに、妻の自分への態度が変わらないのに心の底から安堵し、なおかつ歓びさえ感じているとは、一体、自分の神経はどうしているのか。
これが赤の他人の話なら、笑い話にしているところだ。
チュソンはなおも自虐気味に言った。
「私がー春風ですか。あなたにまんまと騙されて、良いように踊らされていた私が春風とはね。あなたは随分と私を過大評価しているようだ」
央明はどこか哀しげに笑った。
「ですから、そのようにわざと皮肉げな物言いをなさるのは止めて下さい。旦那さまには似合いません」
次いで、瞳を潤ませた。
「春風のような旦那さまをそのようにさせてしまったのは、他ならぬ私のせいなのですね」
黒い瞳に涙が光っている。刹那、チュソンは心を素手で鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
十年間、恋い慕ってきた彼女を泣かせている。そして、泣かせているのは、この自分だ。
チュソンの中で泡立っていたものがやや落ち着いてきたようだった。彼は少し声を低め、ひと息に問うた。
「一体、十八年前に何があったのですか? 失礼ながら、あなたは国王殿下(チュサンチョナー)のー」
流石に、ご実子なのですかとまでは問えなかった。王室の血を引かない者が王族を名乗るのは、不敬罪、大逆罪にも相当する。
央明はチュソンの意図を正しく理解したようだ。彼女はひっそりと笑った。
「国王殿下は、紛れもなく私の父です」
チュソンはホウと息を吐いた。どうやら、想像していた最悪の結末ではないらしい。
誰に聞かれているわけでもないのに、チュソンはいっそ声を落とした。
「あなたは、れきとした王子だ。なのに、生まれ落ちたその瞬間から、王女として育ったーそこまでは合っていますか?」
央明が小さく頷いた。先刻も掠めた予想が再び頭をもたげた。
「政治的意図ですね」
短いひと言に、またも央明は頷く。
「流石は旦那さまですね」
チュソンがまた自らを卑下するように笑った。
「王子を王女と偽る、そんなことを考える裏には政治的な意味しかないでしょう。私でなくとも、まともに頭の働く人間なら、ゆき着く応えですよ」
そこで、ハッと閃くものがあった。
「もしやー」
奇想天外な茶番劇に絡んでいるのがそも誰であるか? チュソンにはこの時点であらかた察しがついていた。だが、その人物が我が身とも浅からぬ身内であるのを思えば、口に出したい名ではなかった。
チュソンの意を心得たように、央明が口を開いた。
「先ほど、長い話になると申し上げましたが、良かったら、聞いて下さいますか」
チュソンは央明にしっかと眼を合わせた。
「私も知りたく思います。私自身にも拘わりのあることですゆえ」
「そうですね、私の大きな秘密が図らずもあなたを傷つけてしまった。それは事実です。おっしゃる通り、旦那さまには事実を知る権利はあります」
央明はそっと眼を伏せた。長い睫が翳を落とす横顔は臈長けて美しかった。こんなときでさえ、チュソンは央明に見惚れずにはいられない。我ながら、どこまで妻に腑抜けているのかと呆れる。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ