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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 チュソンは茫然として呟いた。のろのろと央明から手を離す。央明は自分を守ろうとするかのように両腕を自分の身体に回していた。黒曜石の瞳には涙の雫が宿り、堪えきれない嗚咽が洩れた。
 自分は一体、何をしようとしていた? 祝言の夜も彼は妻の抗いがたい魅力に敗北し、危うく暴走しかけるところだった。もう二度と妻を泣かせるようなことはすまいと誓ったのに、いとも容易く自ら立てた誓いを破ったのか?
ー私は、またしても醜い自分の欲求に負けたのかー。
 チュソンは打ちひしがれ、救いようのない自己嫌悪に陥った。と、右腕に痛みが入り、チュソンは眉をしかめた。見ると、腕にはうっすらと紅い痕がついている。先刻、抵抗する央明に掴まれた箇所だ。
 チュソンの脳裡に、半年前の初夜での出来事が浮かんだ。あのときも襲いかかろうとするチュソンは、央明の予期せぬ反撃に遭った。覆い被さったチュソンを突き飛ばした央明の力は、女人とは思えないほど強いものだった。
 まさか。チュソンは掠めた考えを笑い飛ばした。だが、妻が祝言以来、自分を拒み続けてきた理由としては、至極納得のできる可能性ではある。
 けれども、現実としてはあり得ないことだとも理解していた。愛する妻に何度となくすげなく拒絶され、ついに自分は頭がおかしくなってしまったのだ。だからこそ、そんな馬鹿げた三文小説のような妄想をするのだ。
 チュソンは自分を嘲笑った。
 央明の胸の布は半ば、解けかかっていた。あろうことか、彼女は解けかかる布を自ら解き始めた。
 チュソンは声も無く、ひたすら見つめているしかなかった。白い布はハラリと軽やかに宙を舞い、床にとぐろを巻いた。チュソンの眼には、まるで花びらが散るように見えた。
「ー!!」
 刹那、チュソンは自分が何を口走ったのか判らなかった。確かに何かを言ったようにも思うけれど、実際には意味をなさず?おお?とかそんなことを呟いたのかもしれない。
 しじまを底から引き裂くように、ひときわ大きな雷鳴が空間を震わせる。
 成人男子として恥ずかしいことこの上ないが、幼いときからチュソンは雷が大の苦手だった。十を過ぎてもまだ、雷が鳴ると乳母のヨニの懐に飛び込んで震えていたものだ。
 流石に今はそれはないが、雷が苦手なことに変わりはない。しかし、今は地を揺るがすほどの大音量にも、昼間と見まごうほどの一瞬の明るさにも、まったく何も感じられなかった。
 彼はただひたすら、眼の前の俄(にわか)には信じがたい光景を凝視していた。
 妻ーいや、この期に及んで、彼をどのように呼べば良いのか。適切な言葉を見つけられない。だが、?パク・ジアン?は彼の永遠の想い人なのだ。今更、央明への想いをあっさりと無かったことにできるものではなかった。
 何ということだ。?パク・ジアン?が実在しない少女であっただけではなかった。彼が妻として愛していた央明王女すら、この世には本来いるべきはずのない人物だったとは!
 まったく、笑える話ではないか。自分は一度ならず二度まで、まんまと騙されて一人、架空の少女に恋い焦がれて祝言まで挙げて道化を演じていたというのか。とんだ、お笑い草だ。
 いつしか、妻が傍に来ていた。チュソンは緩慢な動作で視線を動かした。央明の剥き出しになった胸はまったく平坦であった。布の上からはわずかに膨らんでいるように見えたものの、あれは仕掛けがあったのだ。
 床に落ちている布の上には女性の乳房を模した張りぼてが落ちていた。恐らくは、あれでごまかしていたのだ。
 本当に見れば見るほど、真っ平らな胸だ。しなやかな身体は確かに美しいけれど、まろやかな曲線は一切ない。やはり女性のものではなかった。
 気がつけば、央明が手巾で滲んだチュソンの涙を拭っていた。
ーつくづく私は馬鹿な男だ。
 良いように騙されて手のひらで転がされて、その相手の前で三つの童よろしく無様に泣いているなんて。
 たまらない屈辱感と自己嫌悪に身を灼かれそうになるも、涙が止まらなかった。十年前に下町であの正義感の強い美少女にひとめ惚れしてから、ずっと央明を慕い続けてきた。その結果がこれだ。自分はずっと存在もしない架空の少女に一人で熱を上げていたのだ。
 央明は黙って手巾でチュソンの涙を拭き続ける。その手つきは、とても優しいものだ。
 かえって彼の秘密が露見するまでーチュソンが彼女を女性だと信じて疑わなかった頃より、優しい気がする。
 ひっそりと涙を流すチュソンに、央明が静かな声音で語りかけた。
「あなたをこれ以上はないというほど手酷く傷つけてしまいました。まずは、お詫びさせて下さい」
 ふいに凶暴な感情がわき上がり、チュソンは手巾を持った央明の手を烈しい力で掴んだ。本気を出せば、体躯でも勝るチュソンが央明に負けることはない。
「私は女ではありません」
 央明の真摯な瞳がチュソンを見上げている。馬鹿みたいに打撃を受けて取り乱している自分とは裏腹に、彼女は落ち着いている。
 チュソンはその憎らしいほど取り澄ましている仮面をはぎ取ってやりたくなった。
「胸の無い女性はいます。それだけでは、あなたが男だという証拠にはなりませんよ」
 吐き捨てるように言うと、央明は眼を伏せた。少しく後、眼を開き、やはり真剣な面持ちで見つめてくる。
「あなたが信じられないというなら、仕方ありません」
 何をするのかと思えば、央明はチマをも脱ぎ、下着の長穿袴だけになった。それも脱ぎ捨てれば、女性用の下履きだけだ。流石に躊躇いを見せたものの、央明は下履きも一気に取り去った。
「ー」
 チュソンは惚(ほう)けたように一部始終を眺めていた。判っていたことだけれど、最後の最後で、やはりそうだったのかと諦めがついた。
 央明の下半身にはチュソンと同じ男性の証があったのだ。ここまで見せつけられたからには、央明が最早、女性であるとは天地が逆さまになったとしても言えはすまい。
「私は男です」
 今更すぎる科白に、チュソンは自嘲気味に言った。
「そんなことは言われなくても判ります。あなたは、どこまで私を虚仮になさるおつもりなのか」
 央明は床に広がったチマを拾い、細い腰に巻き付けた。そうやって男性である証を隠しせば、本当に胸のないだけの女性だと信じ込んでしまいそうだ。先刻眼にしたのは、悪い夢であったとしか思えない。いや、夢であったなら、どんなに幸せなことだろう。
 時ここに至っても、どうやら自分はまだこの同性にしては華奢で美しすぎる妻に未練がたっぷりあるらしい。
 央明が消え入るような声で言った。
「私には秘密がありました」
 チュソンは鼻を鳴らした。
「それも今更ですね。あなたの秘密とやらは、つまりは女性ではないということなのでしょう?」
 央明は一旦俯くと、また面を上げた。
「いいえ」
 真顔で首を振る。次いで思い直したように言葉を続けた。
「確かに女ではないことも秘密の一つではあります。でも、それだけではないのです」
 チュソンが眼を眇めた。
「それは、どういう意味ですか?」
 央明が吐息をつき、床を示した。
「長い話になります。ひとまず座りませんか?」
 チュソンは観念したように座り込み、央明も火鉢を間に向かい合った。