裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
チュソンの説得にも、央明は頷かない。彼は重い腰を上げ、妻に近づいた。このままでは、妻は風邪を引いてしまう。いや、既に引いているかもしれない。風邪を引いた上に濡れた衣服を着たままで一夜を過ごすのは狂気の沙汰としか言いようがない。
どれだけ嫌われようと、妻が眼の前で凍死するのをおめおめと見守るつもりはチュソンには毛頭ないのだ。
チュソンは手を伸ばし、妻のチョゴリの前紐に手を掛けた。
「そなたがどうしても意地を張るなら、私が脱がせよう」
「ーっ」
央明が弾かれたように立ち上がり、チュソンから逃れ距離を取った。彼女は恨めしげな眼でチュソンを見ている。意に反して触れようとする飼い主に全身の毛を逆立てている子猫のようだ。
チュソンはまた優しい声で言った。
「私は下心があるわけじゃない。ただ、このままでは、そなたは最悪、朝には凍死してしまうかもしれない。黙って見ているわけにはゆかないんだ」
救いようがないほどの沈黙が落ち、チュソンは絶望的な想いになった。やはり、強引に押さえつけてでも自分が脱がせるしかないのか?
できれば手荒な真似はしたくない。暗澹とした想いに耽っていた彼の耳を、衣擦れの音が打った。
しじまの底を這うような、妖しげな衣擦れの音は妙に彼の心をざわめかせた。顔を上げると、視線の先、央明が自らチョゴリを脱いでいた。シュルリと紐が解け、チョゴリがそれこそ蝶の羽根のように空(くう)を舞った。
更に信じられないことに、彼女はチョゴリを脱ぎ、続けて下着の上衣も脱いだ。まさかチュソンは彼女が下着まで脱ぐとは想像もしていなかったのだ。
床に落ちたチョゴリの上にまたハラリと、下着が落ちた。チュソンは慌てて視線を逸らし、うつむいた。視界の片隅では、王女が脱いだ衣服を拾って絞るのが判った。彼女はチュソンに倣い、絞った衣服を床に広げているようだ。
昼過ぎに握り飯とキムチを食べただけだ。普通なら、この時間は空腹を憶えるはずなのに、いっかな感じなかった。異常ともいえる事態に精神が限界を超えているのだろうか。
山の夜は至って静かだった。屋根を打つ雨音と時折、響いてくる雷鳴だけしか聞こえない。あたかも央明とこの世に二人きり取り残されたかのような錯覚に陥る。
けれども、妻にひたすら恋い焦がれる愚かな良人としては、むしろ望ましい事態ともいえた。突如、また小さなくしゃみがしじまにやけに大きく響いた。
チュソンは咄嗟に立ち上がった。迷うより身体が先に動いていた。彼は央明を抱き上げると自分が火鉢の傍に座り、彼女を膝に乗せた。
「ーっ」
央明が息を呑み、抗おうとする。チュソンは極力妻の身体に触れないように細心の注意を払いつつ、低い声で言った。
「大丈夫、何もしないから。ほら、こうやって身体をくっつけていれば、寒さも和らぐでしょう」
チュソンの手は不自然に自らの膝に置かれたままだ。ここからは男としてーというより人としての忍耐を試される時間が延々と続いた。
膝の上にあるのは愛してやまない妻の身体だ。しかも、央明の背がチュソンの裸の胸にピタリと密着している状態である。
彼は途中で幾度か傍らの炭を火鉢に足した。火かき棒で炭をつつき、火が消えないように注意しなければならない。その都度、どうしても身じろぎすると央明に触れてしまうのは致し方なかった。
一度は彼の肘が央明の胸を掠めた。ほんの一瞬だったため、央明自身はさほど拘ってはいないようだけれど、チュソン本人はもう鼓動が煩いほど撥ねる有様だ。
チュソンは熱に浮かされたようなボウとした頭で考えた。少し掠めた程度なら何の抵抗もしないのだ、もう少し触れたとしても嫌がりはしないのかもしれない。
彼は痺れたような思考のまま、手を動かし、背後から彼女の胸に触れた。下着を脱いだ後は胸には幾重にも布を巻いた格好だ。邪魔な布のこの下には、豊かな胸のふくらみが息づいている。
彼の鼻息が荒くなった。指先で布の上から乳房をそっと愛撫する。次第に大胆になり、乳首があると思しき辺りを指先でくすぐるように、引っ掻くように少し力を込めて触れた。
刹那、鋭い声が飛んだ。
「何をなさるのですか!」
央明の悲鳴のような声が束の間、チュソンを現実に引き戻したかに見えたー一瞬の後。
彼は眼を瞠った。今まで努めて眼に入れないようにしてきた魅惑的な光景がまさに眼前にあった。
女性によって布の巻き方は違う。乳房が見えるか見えない程度のきわどい部分までしか巻かない者もいる。妓生などはできるだけ豊かな胸を誇示するかのように乳房の上部分は見えるように巻く。乳首が隠れるか隠れない程度の高さだ。
央明は彼女らしく、胸の部分を覆い尽くすように巻いていた。それでも、胸は隠していても、そこから上の鎖骨部分はしっかりと露出していて、雪のように白い肌が眼に眩しい。
視線をわずかに下げれば、しっかりと布で覆った部分はかすかに盛り上がっている。男にも体格差があるように、央明はどちらかといえば胸は大きくないようだ。
チュソンは胸の大きさなど、たいしたことではなかった。いや、もちろん、愛する妻が豊かな胸をしていれば更なる歓びではあったに違いないが。
慎ましく布で覆った乳房は、わずかな盛り上がりを見せていた。下は真冬にひらく椿のように鮮やかなチマだ。チマの鮮烈なまでの紅色が透き通る肌を際立たせている。まさに、眼福だ。
何という美しい眺めだろう。チュソンは呼吸さえ忘れて、予期せぬ妻の姿に惚けたように魅せられた。あの布を幾重にも巻いた下を見てみたい。邪魔な布を取り去り、妻の乳房に手を這わせたい。
知らず呼吸が荒くなっていた。自分では意識していない中に、身体の中心がすっかり昂ぶっていた。
心の中で、もう一人の自分が誘惑する。
ー何故、あの白い肌に触れてはならない? あの美しい娘は私の妻ではないか。自分の女の胸に触れて咎められるはずがない。
チュソンはユラリと立ち上がった。一歩一歩、央明に近づく。裏腹に央明は追い詰められ、後退した。ついに壁際にまで追い込まれ、央明が見開いた眼でチュソンを見上げていた。
彼女が震えているのは恐怖なのか、それとも、期待なのか。そんなはずがないのに、チュソンはありもしない妄想に囚われ、熱を帯びたまなざしをひたと妻に注いだ。
もしチュソンが冷静になれば、央明が大きな黒い瞳に怯えを滲ませているのに、涙ぐんでいるのに気づいたはずだ。
まるで獲物が捕らえようとする小動物に飛びかかるように、チュソンは央明を引き寄せ押し倒す。胸にきつく巻いた布を夢中でするすると解き始めた彼の手を央明が掴み、懸命に訴えた。
「いやっ、止めて下さい。旦那さま、お願いだから、止めて!」
「何故、いけない? 私たちは祝言を挙げて世にも認められた夫婦なんだぞ?」
チュソンが夢中になって言い募る。彼の手を掴む央明の力がひときわ強くなった。チュソンが痛みに正気を取り戻すほどの力だった。か弱い女人にしては、信じられないほどの強力ともいえる。
「ーあ、私は」
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ