裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
大木の洞(うろ)を探すという手もあるにはあったけれど、短時間ならともかく、万が一、今夜ひと夜を明かすとなれば無理があろう。一晩を明かすには、火を焚く必要があるからだ。
「重くはありませんか?」
吐息混じりに、王女のか細い声が聞こえた。チュソンは前方だけを見据えて進みながら応える。
「何の、これしき、たいしたことはありません」
強がったわけではないし、格好付けたつもりもない。
「そなたは羽根のように軽いから」
実のところ、子どもの頃はともかく、本を読むのが何より好きな今、自分に体力があるとは思えなかった。正直言えば、自信はない方だ。けれども、そんな彼にも王女は随分と軽く、しかも相変わらず肉付きは薄く感じられた。
女人と付き合った経験は一切なかった。そのため、女人の身体に関しても、正直なところ、知識は皆無だ。だが、普通、年頃の女性の身体はもう少し丸みを帯びているものではないか。例えば胸や臀部は女性ならではの曲線があるはずだ。
以前にも感じたかすかな違和感がまたしても頭をもたげた。だが、ここで雨脚が急に強くなり、チュソンの思考は中断した。
彼は余計な物想いを振り払い、王女に囁いた。
「走りますから、落ちないように私にしっかりとしがみついていて」
言い終わらない中に、全速力で走り始めた。どれだけ走ったのか。実際にはたいした時間ではなかったはずだ。雨で視界がよくきかない中、前方にぼんやりと何かが見えた。
ーもしや、建物か?
チュソンは夢中で走る速度を速めた。ほどなく雨に煙る物憂い風景の中、小さな小屋が現れた。
「助かった」
このときばかりは、無信心な彼も心の中で観世音菩薩に感謝を捧げた。小さな建物は質素極まりないが、見たところ手入れはされているようだ。これなら一晩は十分に雨露を凌げるだろう。
チュソンは小屋の前に着くと、壊れ物を扱うように妻をそっと降ろした。
自らが先に立ち、小屋の扉を開ける。ギィとわずかに軋んだ音を立て、扉が開いた。一応、用心のため警戒したものの、やはり小屋内は無人だった。
外見から想像するより中は広く、想像した通り、元は炭焼き小屋として使われていたようだ。その痕跡を示す炭焼き窯が小屋の隣にうち捨てられた形で残っている。
今は薬草を採りにくる者が使っているらしく、周囲の壁には至る所に干した薬草と思しきものがつり下げられている。そのせいで、小屋内は漢方薬特有のツンとした臭いが漂っていた。
壁に寄せるように竹駕籠や鎌なども置かれている。これも薬草摘みに使うに相違ない。
「良かった、ここが見つからなければ、大変なことになるところだった」
山の天気を甘く見てはならない。十一月も終わりの今、真夜中には冬並みに気温が下がるはずだ。雨に打たれ続ければ、最悪、二人揃って朝には凍死している危険性もあった。
「脚が痛むのに、無理をさせて済まなかった」
チュソンが謝るのに、央明は弱々しい笑みを浮かべた。
「旦那さまこそ、私がいるばかりに足手まといになってしまいました。第一、私が山に入りたいと我が儘を言わなければ、こんなことになりませんでした」
チュソンは破顔した。
「気にする必要はない。山登りなんて、私も実は初めてだからね。子どものように胸を轟かせていたんだから、そなただけのせいじゃない」
外が暗いせいか、小屋の中も真っ暗である。時間の感覚に鈍くなっている意識はあるが、恐らくはもう夕刻にはなっているだろう。下手をすれば日暮れ刻かもしれない。
それを物語るかのように、雨に濡れそぼった身体が急激に冷えてきていた。陽が落ちると、山上は余計に温度が下がる。
王女の前であるのを考えれば、やはり躊躇いはあった。しかし、ここで恥ずかしがっているのと、凍死或いは風邪を引くのと選べと言われればやはり、余計な恥じらいは捨てるべきだ。
チュソンは上着、次いでパジも脱いだ。素早く小屋内を見回すと、ありがたいことに小さな火鉢が置いてある。彼は火鉢を運んできて、袖から携帯用の火起こし器を取り出し、火を付けた。
水気を吸い込んだ衣服を固く絞り、壁に懸かる衣紋掛けに掛けた。見たところ、数日は暮らすのに必要なものは揃っているようだ。単なる休憩所というよりは山に滞在するときのための宿泊所なのだろう。
火を熾したお陰で、凍てつくようだった空気が少しだけ暖かさを帯びた。それでも小さな火鉢だけでは、十分な暖を取るには追いつかない。上着とパジは脱いだものの、まだ、びしょ濡れの下着を纏ったままなのだ。
彼はまたしても迷った。王女とは夫婦とはいえ、ちゃんとした口づけもまだ交わしたことはないのだ。妻がどう思うかを考えると、下着まで取り去るのは賢明とはいえないのも承知していた。が、このときも理性が働いた。
妻の不興を買ったとしても、生命を優先するべきなのは当たり前だ。チュソンは上の下着を脱ぐと、また固く絞り、これは床にひろげておいた。こうしておけば、朝までには幾ばくなりとも乾くはずだ。
流石に、これ以上は無理だと思った。濡れた薄い長穿袴(ズボン)は肌にピタリと吸い付くようで、気持ち悪い。何より、冷えが足下からじんじんと這い上ってくるようで、寒気がする。それでも、下帯だけのあられもない姿を央明の前で晒す愚だけは犯せなかった。
その時、彼は央明が真っ青なのに漸く気づいた。脚を挫いたときから思わしくなかった顔色が今や青褪めている。
見れば、彼女は小刻みに身体を震わせていた。やはり、彼女も寒いのだ。いかに見かけは仙女のように神々しく美しくとも、央明は紛れもない人間なのだから、当たり前だろう。
チュソンの思考はここでもまた行きつ戻りつした。こんなことを言おうものなら、どんな下心があるのかといっそう警戒されてしまうどころか、完全に嫌われてしまいそうだ。
それでも。彼は勇気を振り絞った。
「央明、せめて上着だけでも脱いだらどうだろう?」
ハッとしたように彼女がチュソンを見た。
チュソンは自分の声ができるだけ優しいものに聞こえることを願った。
「こんなことを言うと、また嫌われてしまうかもしれない。さりながら、濡れた衣服を着たままでは、病気になってしまう。賢いそなたなら、山の夜に濡れた服を着たままで夜を明かすのがどれだけ危険かは判るはずだ」
央明が唇に歯を立てた。迷っているのは丸分かりだ。気まずい沈黙が落ち、彼女はかすかに首を振った。
服を脱ぐつもりはないという意思表示だ。本人が拒否するなら、致し方なかった。チュソンにはなすすべはない。彼は火鉢を央明の方に押しやり、妻が少しでも暖が取れるようにした。
また少し時間が経過した。一旦止んだかと思った雷鳴がまた聞こえ始めた。しかも、今度はかなり近くから聞こえる。
二人ともに黙りこくったままで、時間の流れが判らないだけに随分とまどろっこしく感じられる。
央明は完全にチュソンから眼を背け、彼を見ようともしない。やはり、上半身何も身につけていないのを意識しているのだろう。
重い静寂に、小さなくしゃみがやけに大きく聞こえた。チュソンは気遣わしげに央明を見た。相変わらず華奢な身体は震えていた。
「央明、やはり脱いだ方が良い」
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ