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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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「昨日の昼から、こちらの食事を戴いているけれど、料理人の腕はなかなかのものね。嫁御には使用人の監督ができていないなんて言ったのが恥ずかしいくらいだわ」
 腕の良い料理人が浸けたキムチがどんなものか確かめたくて、ここに来たというわけだ。
 チュソンは溜息をつきたい心境であった。このまま母を何とか宥めて母屋に帰らせる良い手立てはないものかと思案を巡らせる。
 と、何を思ったか、母が突如として前方を指した。
「行きなさい」
 チュソンは一瞬顔色を変えたものの、平然と言った。
「突然、何を仰せなのですか、母上」
 ヨンオクの美しい面には謎めいた笑みが浮かんでいる。
「チュソン、私はあなたの母ですよ。自分の産んだ子が考えていることくらいは判ります」
 刹那、チュソンの手がわなないた。
「母上、それは」
 咄嗟に何か言い繕う言葉を探したものの、こんなときに限り浮かばなかった。
 刹那、央明が何か言おうと口を開きかけるのに、母は片手を上げて制した。
 央明に淡々とした口調で言う。静謐な横顔からは、これまで母が見せた憎しみにも近いほどの強い敵意は感じられなかった。
「大監さまから詳しい話は聞きました。あなたの抱えてきた秘密も知っています」
 ヨンオクはつかつかと歩いてきて、チュソンを抱きしめた。いつしか母の背丈をとうに超した息子は、母より頭二つ分以上目線が高い。
「達者で暮らすのですよ。どこにいたとしても、元気でいてくれれば良いわ。親にとって子が健やかでいるのが一番の孝行なのだから」
 母はチュソンから手を離し、今度は央明を見つめた。
「息子を頼みます」
 軽く頭を下げる母の姿を見て、チュソンは喉許まで熱い塊がこみあげた。不覚にも男の癖に泣いてしまいそうだ。
 母は祝言の前から、央明にはあからさまな敵意を抱いていた。央明というよりは、息子の嫁に対して含むところがあったという感じだ。
 父がどれだけ母に話したのかは判らない。けれども、母が央明に頭を下げたのは、母の精一杯の譲歩なのだと悟った。
 央明も時ここに至り、かえって言葉は無用だと気づいたのだろう。何か言いかけた口をつぐみ、母にただ深々と頭を下げただけだった。
 母がもう一度、チュソンを細い腕で力一杯抱きしめた。
「遠くから幸せを祈っているわ。ー大切な私の息子」
「母上」
 チュソンもまた今度は躊躇わず母の背に両手を回した。
 先に離れたのは母の方だ。
「さあ、行きなさい。母は今夜ここで誰にも会わなかったし、見なかった」
 チュソンは母に最敬礼した。次に?母上?と口にすれば、涙を流してしまうだろう。
 だから、母の顔をもう一度見ることもなく背を向けた。どこまでも薄情な息子だ。
 チュソンは最初から決めていたように、ひたすら前だけを見て歩いた。
 央明がチュソンの手に自分の手をすべりこませる。まるで縋るものがそれしかないように、彼は央明の手をギュッと握りしめる。もし自分の手をしっかりと握る央明の手がなければ、本当に声を上げて子どものように泣いていたかもしれなかった。

 夜が明けるまでは町外れの木賃宿に身を潜め、早い朝食を取った後、宿を引き払った。着替えもそこで行い、宿を出るときの二人は既に絹から木綿の庶民が纏う慎ましい衣服になっていた。
 どこから見ても、その日暮らしの若夫婦にしか見えない。央明もチュソンもそれぞれ背中には背負い袋をしょっている。央明の薄紅色のそれはミニョンが心を込めて縫い上げたものだ。中に入れる旅の準備もミニョンがすべて整えてくれた。
 チュソンはぬかりなく予め二人の新しい身分証も作っていた。二人の新しい身分証には?曹朱成(チヨ・チユソン)?、?朴支央(パク・ジアン)?と書き込まれている。
 朝が来て都から地方へと至る宮城の門が開くと同時に、二人は新しい身分証を門衛に見せて無事通過した。
 門を抜けて少し歩けば、なだらかな丘の頂に至る。そこからは都の全景が一望できた。
 丘の片隅には今を盛りと匂いやかな蝋梅がひそやかに咲いている。小さな花は凍てつく冬の寒さも吹き飛ばすような鮮やかな黄色で、細い枝に無数についている。
 地方からはるばる都を目指してやってきた者、逆にこれから都を出て地方を目指す者、共にここで立ち止まるのが習いだ。誰もが都を一望する丘に佇み、長い旅路に想いを馳せると決まっていた。
 今、チュソンと央明も他の多くの旅人と同様、都を見晴るかす丘に立っている。
 こうして見ると、都の何とも小さなことか。王さまが棲まう宮城は広大だと信じてきたけれど、ここから見渡せる王宮はまるで子どもの玩具のようでさえある。
 遠くから見下ろせば、王の棲まう宮殿も庶民が暮らす仕舞屋もさほどの違いはありしはない。
 王位継承だ復権だなどと、自分は何を拘っていたのだろうか。そのようなこと、この米粒ほどの都を見ていたら、どうでも良いと気づいたはずなのに。
 チュソンは頂(いただき)に立ち、言うともなしに言う。
「あなたは自由に生きて良いんだ。もう、あなたを縛るものは何もない」
 央明は何を考えているのか、じいっと思慮深げな視線をはるか下方の都に向けている。
 都を出てから、チュソンは初めて央明を真っすぐに見た。
「私は、あなたの気持ちに従うよ。これからどうしたいかは、あなた自身が決めれば良い」
 ややあって、チュソンは言葉を継いだ。
「あなたは今までのように自分を殺して、女として生きることを望む?」
 長い沈黙があった。央明はかすかに首を振り、チュソンを見つめ返す。チュソンは言葉通り、視線を逸らさず彼の視線をしっかと受け止めた。
「ならば、男として生きれば良い」
 明るく言ったチュソンに、央明が躊躇いがちに言う。
「こんな私でも、本当に良いのですか?」
 チュソンは央明の言いたいことが痛いほど伝わってきた。
 男でありながら、女としてずっと生きてきた彼は、恐らく身体は男でも気持ち的には女性に近いのではないか。だからといって、完全に女性になりきれるはずもなく、本来の性である男として生きたいという渇望にも似た願望も強い。そんな自分への葛藤がかつての彼自身の?半端者?という言葉によく表れている。
 だが、央明はけして半端者などではない。
 彼は今は生まれたての赤児と似たようなものだ。これから男物の服を着て、男としての生活を送ることで、赤児が少しずつ言葉を憶え下界に適応してゆくように、本来の性を取り戻してゆくのだ。
 チュソンは、央明の側で彼が自分を取り戻すのをゆっくりと見守ってゆけば良い。
 央明の面に、はにかんだような笑みが浮かぶ。
「私はこんな中途半端だし、おまけに何も持っていません。あなたは私のために何もかもを犠牲にして下さったのに、私はお返しするものが何もない」
 チュソンは心から言った。
「これだけは忘れないで。私がそなたを欲しいと思ったのは王の娘だからでも、ただ美しいからでもない。あなたがあなただから、私は央明を望んだんだ。央明は今のあなたそのままで良いんだ。変わる必要もない」
 央明がおずおずと訊ねる。
「もし、私が変わってしまったら?」
 チュソンの整った顔に春の陽のような微笑がひろがった。