裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
「翡翠はお守りになってくれるそうよ。後は私が作った化粧水。ミリョンは冬になったら、特に手荒れが烈しいから、こまめにつけて酷くならないように気をつけて」
央明は手ずからミリョンの首に首飾りをかけた。
「翁主さま」
ミリョンが声を震わせる。
央明に泣くなと言ったミリョン自身がむせび泣いていた。
「今までありがとう」
央明の言葉には万感の想いがこもっているようであった。妻にとって影のように常に側にいた忠実なミリョンは、央明が哀しみの涙を流す時、いつもこうして涙を拭ってくれた姉のような存在だったのだ。
これからは側にいられないミリョンの代わりに央明の涙を拭うのは、チュソンの役目なのだ。
逢ったこともない乳母、そして央明が降嫁してから新居でのわずかな日々を支えてくれたミリョンに、チュソンは心から感謝した。
許されるなら、心ゆくまで別れを惜しませてやりたいのは山々だ。しかし、長居は無用だと判っていた。
「央明」
促せば、央明が頷いた。ミリョンが両手を組んで持ち上げ、座って一礼する。更に立ち上がって深々と頭を下げた。
旅立つ主君に捧げる最後の拝礼だった。
チュソンに手を引かれ、央明が歩き出す。途中、央明が幾度か背後を振り返ったときも、まだミリョンは扉前に立って見送っていた。
チュソンの居室を出た先は、藤棚になっている。折しも今宵は新月であった。生まれたばかりの細い月が藤棚の上に見える。
「ー雪」
央明が小さく呟き、チュソンはつられるように空を見上げた。空の殆どを厚い雲が覆っているにも拘わらず、繊細な月が昇っている部分だけがくっきりと晴れている。
鈍色の雲から、白い花びらがちらちらと舞っている。
「旅立ちの日も雪か」
チュソンが苦笑いを浮かべると、央明が細い指先を藤棚に向けた。
「ご覧下さい。まるで白藤が咲いているよう」
今は小降りだが、どうやら雪はかなり前から降っていたようである。地面ばかりか藤棚に伸びている藤の樹の枝先にも白いものが薄く積もっていた。
初夏に咲く藤の樹は一月下旬の今、花どころか葉さえなく、殺風景なばかりだ。しかし、白い雪の花びらを纏う佇まいは趣深く、さながら春の終わり、匂いやかに咲き誇る白藤にも見えた。
チュソンが心から愛する人がこよなく愛する花である。
央明は雪を薄く戴く藤の樹に眼を細めている。チュソンは彼の傍らに立ち、静かに言った。
「新しい家には、藤を植えよう」
「そうですね。小さくても良いから、庭付きの家に住みたい」
チュソンもまた感慨深く藤棚を眺めた。央明と結婚してからというもの、わずか七ヶ月しか住まなかったけれど、新婚時代の忘れがたい想い出が詰まった屋敷だ。
再びここに戻ってくることはない自分たちは、初夏に咲く白藤を見ることはないだろう。
「名残は尽きないが、行こうか」
チュソンの言葉に央明が頷き、二人は庭を歩き始めた。庭づたいに更に奥に進み、塀を乗り越えて屋敷前の道に出る手筈になっている。
チュソンは知らず後ろを振り返った。ここからは母屋の一部が見える。あろうことか、昨日の朝、母ヨンオクが急に訪ねてきた。去年の終わり以来の来訪だった。
二度も悶着を起こし、流石に気まずくて訪ねてこられないのだろうと思っていたら、何事もなかったように澄ました顔で乗り込んでくるものだから愕いた。
母いわく、近隣に嫁した姪が出産したとの知らせがあり、祝いに来たのだという。姪を訪ねがてら、息子夫婦の棲まいを訪ねたというわけだった。
チュソンの従妹に当たるその娘は、中流両班家に嫁ぎ、数日前に初めての子を出産したばかりだ。姪のところから真っすぐにやってきた母は、もう生まれたての赤ン坊の話ばかりだった。
いつもは母の長話にうんざり気味のチュソンだが、今回は気持ちよく母の話に付き合った。都を出れば、母の長話を聞くこともないのだ。自分は今までけして良い息子とはいえなかった。
科挙を首席で合格しながら、出世を棒に振って己れの初恋を叶えた。結局、家門を継ぐべき跡取りを儲けることさえできなかった親不孝な息子だ。
せめて最後くらいは面倒がらずに母の話に付き合いたかった。父にも別れを告げたいが、かえって迷惑になる怖れがある。チュソンと央明が都から姿を消せば、当然、王妃は追っ手を放つに相違ない。
王妃のことだから、父にも詰問しかねない。だが、知らなければ、訊ねられても応えようがない。チュソンが両親に敢えて何も告げずに旅立つのはそのためでもあった。
今回の訪問では、母と央明の間には何も起こらなかった。ーというより、央明が母の前に出てゆかなかったのだ。母に対して広い心で向き合おうとした妻ではあったが、二度も凄まじい敵意をぶつけられて気持ちを挫かれたのだろう。チュソンは特に何を言うでもなかった。
足音を殺して歩く二人の手前に拓けた一角が見えた。ゆとりのある空間に一定の間隔で壺が並んでいる。壺の中にはキムチ浸けが入っている。
冬の間、どこの屋敷でもキムチが盛んに浸けられる。一年中、いつでも作られるものではあるけれど、真冬に浸けたキムチが最も美味しいといわれているからだ。
この屋敷の女中たちは料理の腕が確かだから、彼女たちの浸けたキムチは極上だ。
「ーっ」
チュソンは危うく声を出すところであった。整然と並んだ壺と壺の間に人影が見える。こんな夜更けに誰なのか。ここで使用人に見咎められては万事休すだ。
全身に緊張を漲らせたチュソンの傍らで、央明も茫然と立ち尽くしている。
ーしまった。
チュソンは唇を噛みしめた。ここまで来て、とんだ邪魔が入るとは。
しかも人影はチュソンたちに気づいたようで、真っすぐに向かってくる。チュソンが腰に佩いた長剣に手を掛けた。
いざとなれば斬って捨てても、自分たちは今夜ここを出なければならないのだ。央明がいち早くチュソンの仕草に気づき、刀を握りしめる彼の手に手を重ねた。
ー刀を抜いてはなりません。
優しい彼の声が聞こえるようだ。しかし、今夜ばかりは央明の頼みでも聞くつもりはない。彼を守るためには、冷酷な鬼にでもなる。
チュソンと央明は小雪が舞う中、じっと立ち尽くした。カチャリと、チュソンが鯉口を切る音がかすかに聞こえる。
意外にも夜の深いしじまに響いたのは、聞き慣れた声であった。
「チュソンや」
チュソンの口からホウと溜息とも取れぬ息が洩れた。母ヨンオクが夜を背負って立っている。戸外に出るために羽織ったのか、夜着の上に毛織りの胴着を着ていた。
「母上(オモニ)」
チュソンの手が長剣から離れた。
「どうされたんですか? こんな時間に」
努めて何でもない風を装うのには苦労した。
母は若々しい面に微笑を刻んだ。こうして見ると、若く見える母も目尻に皺が目立つ。改めて母も来年は四十になるのだと思い至った。これから老齢を迎えようという両親を残し、自分は永遠に旅立とうしている。
ヨンオクが笑いながら言った。
「枕が変わると何だか眠れなくてね。外の風に当たれば眠れるかと思ったのと、キムチの浸かり具合を見たいのとでここまで来たのですよ」
チュソンは茫然と呟いた。
「キムチの浸かり具合、ですか」
母が笑う。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ