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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 話し終えた後、央明は無言を守っている。チュソンは肩を落とした。やはり、妻は自分の浅はかな行いに呆れ果てているのだ。
 当然だろう。チュソンが余計な世話を焼かなければ、央明は性別を偽る限りは生命の保証はあった。しかし、チュソンが王妃に揺さぶりをかけたことで、王妃は再び央明の存在が危ういものだと考え始めた。
 たとえ女として生きていようが、中身は男なのだ。その気になりさえすれば、いつでも央明は王位継承権のある王子として名乗りを上げられる。いつ世子の地位を脅かそうとするか知れたものではない。
 いや、央明の存在そのものが世子にとっては脅威なのだ。今度こそ、後顧の憂いを取り除こう。
 そのことに気づいた王妃が立ち上がったとしても不思議はない。結果、央明はまたしても刺客に刺され、重傷を負った。
「ご自分をお責めにならないで」
 央明の声に、チュソンは面を上げた。いつもは意識して出している高い声が今は少し掠れている。地声なのかもしれなかったし、怪我の痛みと熱のせいのかもしれない。
 夜明け前の薄明かりの室内で、央明の黒い瞳が冴え冴えとチュソンを見ていた。
「旦那さまは私のためを思い、行動して下さったのです。許すも許さないもありません」
 チュソンは胸が熱くなった。
「央明」
 央明はやつれていても、十分美しい。その面に淡い微笑が浮かんでいた。
「むしろ、旦那さまが私のために勇気を出して王妃に戦いを挑んで下さったことが嬉しいです」
「ー」
 チュソンは胸が一杯になり、央明の手を自分の両手で包み込んだ。
 優しい央明、美しい妻。得難い人が妻になってくれたきっかけは、意外にも王妃である。実は男である央明をチュソンに嫁がせ、チュソンばかりか父ジョンハクをも笑いものにするつもりだったことから始まった。
 それを考えれば、ある意味、王妃には感謝しても良いのかもしれない。
 そして、央明が許してくれたからといって、自分の過ちが消えるものではないのもチュソンは承知している。
 過去を振り返って後悔ばかりしても意味はない。大切なのは、未来をどう生きるかだ。
 今、最も重要なのは、央明を守ること、即ち身の安全だ。
 今度こそ失敗は許されない。たとえ我が生命に代えても全力で妻を守る。 
 央明を守るために必要なことー。チュソンは決意を込めた瞳で妻を見た。
「央明、私はそなたを何があっても守りたい。そのためには、あなたを今より辛い目に遭わせてしまうかもしれない。あなたに受け入れて貰えるだろうか」
 央明の眼(まなこ)は、今、都に広がる夜明けの空のように澄んでいる。自惚れかもしれないが、チュソンへの信頼がほの見えると思うのは、気のせいだろうか。
 チュソンは妻の澄んだ瞳を見つめながら、愛しい人を守るためにこれからなすべきことを一つ一つ、ゆっくりと話し始めた。  
 
 その日も漢陽の空は雪が舞っていた。
 チュソンは少し早めに央明と共に自室で夕食を取り、床に入った。
 まだ完全に傷が癒えてまもない央明は、すぐに眠りに落ちたようである。チュソンは逆に頭の芯はすっきり冷めていた。また、自分までもが眠り込んでしまってはならないと強く思い込んでいたお陰もあるだろう。
 夜半までにはまだ時間がある。うっかり眠ってしまわないように、チュソンは央明を腕に抱きながら、これからの自分たちのことを考えた。
 日陰の身に甘んじていたとはいえ、央明は王女だ。王宮しか知らない彼に、果たして市井で生きてゆけるのか。数え始めれば、心配事は幾つでもあった。
 けれども、もう後ろは振り向かないと決めたのだ。愛する人と二人、手に手を携えて前だけを見て進んでゆこうと。
 腕の中には愛しい妻の温もりがある。戸外は身体の芯まで凍てつく真冬の寒さでも、央明を抱いていれば身体ばかりか心まで満たされる。
 一ヶ月前、央明が刺されたと聞いたときは、この温もりを失うかもしれないと怖れた。もう二度と、心ノ臓が止まるような不安はしたくない。
 あの日、央明を守るためには都落ちしかないと心を定めたのだった。
 チュソンは妻の漆黒の髪を撫でながら、想いに耽った。この屋敷を一歩出れば、しばらくはのんびりと物想いに浸る暇などないだろう。だが、愛する人が側にいてくれる限り、どこであろうが構いはしない。チュソンにとっては、央明のいる場所こそが自分の終(つい)の棲(すみ)家(か)なのだから。
 それからなおも半刻余り時間をやり過ごし、チュソンはそろそろ妻を起こす頃合いだと知った。
「央明、央明」
 低い声で呼べば、妻は不満げに愛らしい口を尖らせてまた眠りに落ちようとする。
 チュソンは妻の唇をそっと唇で塞ぎ、しばし、しっとりした感触を味わった。物想い同様、こんな風に戯れ合うのもしばらくはお預けになるかもしれない。
 彼は名残惜しい気持ちで妻から離れ、央明の耳許に唇を寄せた。
「央明、そろそろ起きる時間だ」
 翳を落とす濃い睫が細かく震え、央明が眼を開く。毎朝、めざめる妻を見る度に、チュソンは新鮮な歓びに包まれる。百年に一度しか咲かぬ花がひらくのを見守る気持ちで、妻のめざめを見守るのだ。
 これからもずっと、妻を抱いて温もりを感じて眠りにつき、朝は愛しい人の寝顔を見て、彼がめざめる様を見ていたい。
 央明を今度こそ本当に得るために、今日、チュソンは本当にすべてを捨てる。
 央明がハッと身を起こした。
「済みません。大切な日なのに、私ってば熟睡してしまって」
 チュソンは首を振った。
「構わないよ。これからは長い旅路になる。眠れるときに眠っておいた方が良い」
 二人共に夜着は着ていない。時間が来たらすぐに出発できるように衣服を着ていた。今はまだ良家の若夫婦らしい装いだが、都を出る前には平民らしい簡素なものに着替えるつもりだ。
 ミリョンが事前に用意してくれた荷物の中には、下町の古着屋で求めたそれも入っている。
 チュソンが先に立ち、控えの間に続く扉を開ける。ミリョンがいつも不寝番を務めるときのようにひっそりと影のように座っていた。
 央明がミリョンを抱きしめた。
「ミリョン、あなたと過ごした日々をずっと忘れない」
 ミリョンもはらはらと涙を零していた。
「私も翁主さまの御事は一生忘れません。数ならぬ身が翁主さまにお仕えさせて戴き、夢のようなたくさんの想い出を戴きました」
 央明が涙ぐんで首を振る。
「それは私の科白。乳母やあなたがいなければ、私はとっくに絶望のあまり生命を絶っていた。これまで生きてこられたのも、あなたが側にいてくれたから」
「勿体ないお言葉」
 ミリョンは声を殺して泣いた。泣き声が他の使用人に聞こえれば厄介だ。袖から手巾を出し、小柄な彼女は伸び上がるようにして央明の涙を甲斐甲斐しく拭いた。
「晴れの門出に涙は禁物、恋い慕う方とのこれが本当の旅立ちなのですから」
 央明はうんうんと頷きながら言った。
「そなたもこれから誰かのためではなく、自分のために生きなければ駄目よ」
 ミリョンは、その言葉には笑っただけだ。
 央明は薄紫色のチュモニと小さな小瓶をミリョンに押しつけた。ミリョンがチュモニを開けると、翡翠を連ねた首飾りが出てくる。