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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 父の言わんとしているのは判った。今回失敗したとしても、また二度目、三度目の刺客を放つ可能性があると言っているのだ。
 チュソンは暗澹たる想いで応えた。
「承知しております」
 ジョンハクはほどなくまた闇に紛れるようにして帰っていった。
 チュソンはまた央明の居室に戻った。側には相変わらずミリョンがいる。
 枕辺には金盥があり、濡れた手巾が央明の額に乗せられていた。
「少しお熱が出てきたようです」
 ミリョンが気遣わしげに言うのに、チュソンは穏やかに言った。
「少し私が代わろう。そなたも寝んできなさい」
 ミリョンの顔にも疲れがありあり現れている。昼間から負傷した央明に付きっきりなのだから、無理もなかった。
 ミリョンから聞いた医者の話では、多少の熱が出るのは想定内で、よほどの高熱にならない限りは心配には及ばないそうだ。
 熱が上がってきたのか、先刻より幾分、顔が紅いようだ。チュソンは手巾を取り上げ金盥の水に浸すと、固く絞ってまた央明の額に乗せた。何度か繰り返している中に、彼もまた睡魔に負けてうたた寝をしてしまった。

 優しい手が髪を撫でている。子どもの頃、ヨニがよく頭を撫でてくれたけれど、この手つきはヨニに似ているようで微妙に違う。
 チュソンは眼を開き、ゆっくりと周囲を見回しながら寝ぼけ眼(まなこ)を手のひらでこすった。
「夫人、目覚めたか」
 見れば、央明が眼を開き、チュソンを見上げていた。
「ーご心配をおかけして、済みません」
 彼の想い人は、こんなときでさえ気遣いを忘れない。チュソンは泣き笑いの表情で言った。
「そなたがいなくなったれば、私も生きてはおられぬところであった」
 今更ながらに、夢の中で優しく彼のつむりを撫でていたのは央明であったのだと悟る。
 掛け衾(ぶすま)から白い手が出ている。チュソンはその手を取った。人のいないところで剣術をして鍛えている手は、しなやかだ。しかし、やはり華奢であるのには変わりなく、チュソンの方が太かった。
 チュソンは宝物を愛でるように、妻の手を撫でた。自分はあと少しで、この温もりを失うところであった。既にこの温もりがなければ、生きてはゆけないと思うほどに大切な温もりを。
 すべては愚かな自分のせいだ。
 央明を守りたいと思いながら、自分のなしたことは逆に央明を追い詰めている。
 チュソンは父の言葉を思い出していた。
ーそなたは中殿さまに大きな揺さぶりをかけたのだ。これより先、彼の方がこのまま大人しくしている保証は何らない。
 父の言葉は道理だ。大人しくしている保証はないというのは、控えめな表現だろう。
 チュソンの読みでは十中八九、王妃はまた動く。そして、今度は王妃も仕損じることがないように万全を期して刺客を寄越すはずだ。
 義禁府に囚われた刺客は口封じのために殺された。最早、伯母は央明の息の根を止めるためには手段を選ばないだろう。
 チュソンの思惑を知ってか知らずか、央明が呟いた。
「私を刺した男を知っています」
 刹那、チュソンは背筋に氷塊をピタリと当てられたように総毛立った。
「何だって? それは一体ー」
 物問いたげなチュソンに、央明は応えようとして小さく呻いた。
「痛ー」
 チュソンは狼狽えた。
「済まない。私の考えが足りなかった。あなたは怪我をしたばかりだというのに」
 と、央明は嫌々をするように首を振った。
「いいえ、いいえ! むしろ、私は旦那さまに聞いて戴きたいです」
 チュソンは優しく頷いた。
「判った。話を聞くから、興奮しないで。傷に障る」
 央明は素直に頷き、ホウッと息を吐いた。
「先ほど、そなたは掏摸を知っていると言ったね」
 央明は真顔で否定した。
「あの者は掏摸ではありません」
「判っている。側にいたミリョンの話では、あの男がわざとそなたにぶつかってきて、刃物で刺したように見えたそうだ。通りすがりの掏摸がそんなことをするとは到底思えない」
 チュソンは話の向きを変えた。
「今、そなたはその男を知っていると言ったな。一体どこで知ったんだ?」
 央明は軽く眼を瞑った。
「あれは確かに私を殺しにきた男でした」
 これほどの衝撃を受けたのは初めてというほどの衝撃が彼を襲った。
「殺しにきたとは、昨日、そなたを刺したときのことを言っているのか?」
「いいえ」
 央明が眼を開いた。
「あの男は以前も私を殺しにきたのです」
 ますますもって意味が判らない。いや、言葉通りに受け取るならばー。
 またも肌がザワッと粟立った。
「そなたは昔、一度、あの者に殺され掛けたということか?」
「ええ」
 央明がチュソンをじいっと見上げた。
「もう十二年前のことです」
 央明から語られた事実は、チュソンを徹底的に打ちのめした。淑媛との約束があるにも拘わらず、王妃は一度ならず二度も央明を殺そうとしていたのだ! 
 何という怖ろしい女だろう。他人の生命を奪うことを欠片ほども疚しく思っていない。
 央明が言葉を継いだ。
「王妃が放った刺客であろうことは大体想像がつきます。最初は距離があったので、男の顔が見えませんでした。でも、ぶつかる直前、顔がはっきり見え、あの者が六歳の私を王宮で殺そうとした武官と同じだと気づいたのです。そうしたら、怖ろしさに身が竦んでしまい、咄嗟に避けるつもりが身動きが取れなくなってしまって」
 チュソンは少し迷い、央明に告げた。
「あの男は死んだよ」
 央明が眼を瞠り、次いで哀しげに言った。
「消されたのですね」
 チュソンは頷いた。
「恐らくは。二度も失敗したことへの見せしめもあるだろう。義禁府に囚われていたから、口封じのためが一番だとは思うが」
 最早、央明の顔は白を通り越して蒼かった。
「怖ーい」
 央明が両手で顔を覆った。
「王妃は今度こそ私を本気で殺しにかかっているのですね」
 その引き金を引いてしまったのは、他ならぬ自分だ。今になって自分を責めても遅すぎた。だが、自分一人なら王妃の毒牙にかかっても本望だけれど、央明までを巻き込むわけにはゆかないのだ。
 チュソンの愚かさを央明は知らない。けれど、知らせずに済むからと黙っているのは、チュソンの性格が許さなかった。
 もしや最愛の人に嫌われるかもしれない。それでも、なかったことにはできない。
 チュソンは妻を見つめ、ひと息に言った。
「そなたに謝らなければならない」
 何のことかと眼をまたたかせる央明に、チュソンは続ける。
「私が早まったばかりに、そなたをより危険に晒す羽目になった」
 チュソンは六日前に中宮殿を訪ね、直談判したことから始め、央明の復権を実現するように王妃に取引を持ちかけたことまでを話した。
 央明は彼の話に聞き入っている風に見える。チュソンは話の終わりに言った。
「私は王妃の底知れぬ怖ろしさを甘く見ていた。心のどこかでは、王子として生きてゆくことは、そなたに怖ろしい危険を招くと認識していながら、むざと危険を引き寄せるような真似をしでかしてしまった」
 眠った子を起こすなという諺がある。チュソンが迂闊にも持ちかけた駆け引きは、王妃の中で眠る酷薄さを再び目覚めさせてしまったのだ。