裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
「ミリョン、翁主さまを刺した男は確かに物盗りだったのだろうね」
唐突に問われ、ミリョンは眼を見開いている。
「はい、掏摸だと追いかけている人たちも声高に叫んでいましたし」
央明を刺した咎人は最初は捕盗庁に収監された。しかしながら、央明は降嫁したとはいえ、当代国王の娘だ。ゆえに男の身柄は直ちに義禁府に移されたところまでは、事後に屋敷を改めて訪ねてきた捕盗庁の役人がミリョンに話していったという。
その役人はミリョンにも幾つか職務的な質問をしたが、すぐに帰った。
チュソンは唸った。
「何故、掏摸が刃物など物騒なものを持っていたのか」
いやと、彼は首を振る。
「掏摸をするような無頼の輩が刃物を持っていたとしても、不思議ではない。さりながら、その男が翁主さまをいきなり斬りつけたというのが解せないな」
ミリョンが眼をまたたかせた。
「そういえば、おかしうございますね。追いかけてくる男たち相手に刃物を振り回すつもりだったのかもしれませんけど」
ミリョンは言葉を止め、しばし何かを思い出すような表情になった。
「そういえば、私もその時、奇妙だとは思いました。出血量が多く、翁主さまのお怪我が見た目はかなり酷いもののようでしたので、私も動転し失念しておりました。そうですね、確かに私の眼には刃物がたまたま翁主さまに当たったというよりは、男がわざと狙って翁主さまを刺したようにしか見えませんでしたもの」
チュソンは眠り続ける妻を見た。ミリョンによれば、鎮静効果のある薬のせいで、今は眠っているらしい。傷は予想外に深くはないとはいえ、大量の血を失った顔はいつもにも増して透き通るように蒼白い。
そっと手を伸ばし、乱れた央明の髪を撫でつけた。
妻を傷つける者は誰であれ、許しはしない。
チュソンの心で怒りの焔が燃え上がった。
もしや。思案に耽っていたチュソンは閉じていた眼を見開いた。
央明の存在を疎ましく思う者。更に五日前、チュソンは大胆にも王妃に取引を持ちかけた。あの日、伯母は最終的には取引に応じると約束はしたが。あれが表向きだけの譲歩だとしたら?
央明の復権を承諾したと見せかけ、チュソンが行動を起こすより先に央明を殺害する。肝心の央明がいなくなれば、約束そのものが無意味になる。
だが、一国の王妃がこんな姑息な手段を取るだろうか。いいやと、チュソンは首を振る。己れが甘すぎたのだ。
父の言うことは正しかった。よもや、いかにあの伯母でも、そこまではすまいと高を括っていたのが禍した。自分は伏魔殿でしたたかに生き抜いてきた権力魔を見くびっていた。王妃は既に央明の母淑媛を殺害している。
赤児だった央明の殺害には失敗したものの、既に一人殺していれば、その子をまたしても殺そうとするのも躊躇(ためら)わないだろう。
観玉寺の裏山に登って遭難しかけた際、チュソンは思いがけず央明の秘密を知ることになった。チュソンの脳裡には、既にあのときから央明の復権があった。が、あの一瞬、その先の危険を考えなかったわけではなかった。
王子だと世間に知れれば、央明の生命はない。一瞬掠めた考えを思い出し、復権がもたらす央明への危険をもっと突き詰めるべきであった。自分よがりの正義感に逸り、父の諫めもきかずに突っ走った。慎重さを欠いた自分の向こう見ずな行動が最愛の妻をみすみす危険に晒したのだ。
夜半、父ジョンハクが夜陰に紛れて輿でやってきた。
チュソンは父と居室で対面した。上座に座った父と文机を間に向かい合う。
ジョンハクの顔にも血の気がなかった。
「翁主さまが町中でならず者に刺されたと聞いたが、大事ないのであろうな」
逢うなり言った父に、チュソンはありのままを話した。ジョンハクは難しげに眉を寄せて聞いていたが、一通り聞き終え、大息をついた。
「国王殿下も事の次第をお聞きになり、御心を痛められている」
ジョンハクが憂い顔で言う。チュソンは心もち身を乗り出し、小声で告げた。
「父上、これは単なる偶然ではないのかもしれません」
ジョンハクが頷いた。
「さもありなん。チュソン、聞いて愕くな。義禁府に拘束中の咎人が死んだぞ」
「ーっ」
自分のヒュッと息を呑む音が聞こえた。
「何故ですか!」
ジョンハクも声を潜めた。
「表向きは自害ということになっているが、その実、毒殺されたとのことだ」
「毒殺!」
チュソンは最早、言葉もない。毒殺であれば、当たり前ながら殺されたということだ。
「夕方頃、罪人たちに供された食事に毒が混入していたらしい。ひと口食べただけで、血を吐き、のたうち回りながら死ぬ猛毒だ」
軽い目眩を憶え、チュソンは辛うじて踏ん張った。父の前で女のように倒れる無様は犯せない。
チュソンはミリョンの科白を父に伝えた。
「父上、翁主さまに仕える女官がこんなことを申しておりました」
ー私の眼には刃物がたまたま翁主さまに当たったというよりは、男がわざと狙って翁主さまを刺したようにしか見えませんでしたもの。
ジョンハクは腕を組み、思案に耽った。おもむろに視線を動かし、チュソンを見る。
「そなた、何かしでかしたか?」
チュソンは居住まいを正した。
「五日前、中殿さまにお逢いしました」
ジョンハクが嘆息した。
「それだな。愚か者めが。儂があれほど勇み足は危険だと申し聞かせたのに、忘れたか。どうせ翁主さまを王子として公表するようにと中殿さまに迫ったのであろう」
口には出さずとも、父も息子も判っていた。
これは用意周到に仕組まれた殺人未遂事件だ。王妃はどこまでも抜け目がなかった。
単に刺客を放つのではなく、逃走する掏摸が町中で央明にぶつかったと見せかけ、衝突した機会を逃さず刺し殺すように命じた。
恐らく掏摸を装った刺客は央明が屋敷を出るときから、ずっと後を付けていたに相違なかった。央明が布屋で布を選んでいた時間を利用し、近くでわざと財布を擦って騒ぎを起こし逃走するふりを装った。追われて逃げる掏摸が道端で買い物をしていた女にぶつかったとしても、何ら不思議はない。
その隙に央明を殺害するつもりだったのは明らかだ。王妃にとって不運だったのは、刺客が央明を一撃で殺せなかったことだ。しかし、それで良かったのだ。
もし刺客が央明を殺していたとしたら、チュソンは剣を隠し持ち、再び中宮殿を訪ねていたはずだ。笑顔で伯母に話しかけながら、刺客が央明にしたように、伯母の胸に刃を突き立てたろう。
たとえ王妃であろうと伯母であろうと、大切な者を傷つける者は絶対に許すつもりはなかった。
チュソンは伏し目がちに言った。
「申し訳ありませんでした。父上のお言葉の意味を深く考えもせず、逸った私のせいです。このことで、父上にまでご迷惑をおかけしなければ良いのですが」
執念深い王妃のことだ、嫌みの一つ二つで済めば良いが、万が一、父にまで魔手を伸ばさないとも限らない。
ジョンハクが低い声で笑った。
「儂の心配より、我が身の心配をせよ。そなたは中殿さまに大きな揺さぶりをかけたのだ。これより先、彼(か)の方がこのまま大人しくしている保証は何らない」
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ