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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 央明がこの独特の賑わいが好きなように、あの男も店の奥にちんまりと座って客を待つより、露店で声を張り上げて商売をする方が性に合っているのだろう。
 下町には、その日を精一杯生きる民たちの活気が溢れている。央明が幼い頃から好んで下町に来た理由でもあった。
 ミリョンは判ったような判らないような顔だ。
「そういうものでしょうか」
 ミリョンが言い終えたかどうかーという時。急に少し前方がざわめいた。
 騒がしい人声に紛れ、時々、叫び声が聞こえる。
「掏摸だ、掏摸だぞ」
 ほどなく、一人の男が往来を駆けてくるのが眼に入った。その後を数人の男たちが更に追いかけている。
「誰か、そいつを捕まえてくれ」
 追いかける男たちの一人が叫ぶも、通行人は誰もが彼らを避けて道の脇に逃げるだけだ。逃げる男は相当の健脚らしく、尋常でない速さだ。
 ミリョンが咄嗟に央明の腕を掴んだ。
「翁主さま」
 央明の腕を引いて避難しようとミリョンが呼んでいる間、央明は眼を見開いて立ち尽くしていた。
 あの男の顔には、確かに見憶えがあった。そう、忘れもしない六つのときだ。
 王宮内の人気の無い一角で遊んでいた央明の前に突如として現れた男だ。そのときの男は下級武官のなりをしていた。
 石蹴りをしていた央明の前に、男は立ちはだかった。急に眼の前が暗く翳り、愕いて見知らぬ武官を見上げた。男は丸太のようなむくつけき腕を央明の細首に回し、力の限り締め上げたのだ。
ーく、苦しい。
 央明は渾身の力でもがいたけれど、六つの童女と大人の屈強な男では所詮比べものにはならなかった。
 このまま自分は死ぬのかと意識が遠くなりかけたまさにその時、乳母の鋭い誰何する声に救われた。
ー何者っ、そなた、我が翁主さまに何をする。
 乳母が男に体当たりし、央明の首を鷲掴みにしていた男はよろめいて転んだ。
 武官はそのまま走り去った。
 後にも先にも央明が殺されそうになったのはそのときだけだ。乳母がひそかに調べさせたところ、似顔絵に描かせたその武官は本来、王宮にはいるはずのない偽武官であるのが判明した。
 央明が生きているのをこの世で一番疎ましく思う人間、刺客を寄越したのは恐らく王妃であろうと思われた。が、確証もなく、その後、央明の生命が狙われることもなかったため、国王に報告もされなかった。
 今、央明めがけて走ってくる男は粗末な木綿の服を纏い、その日暮らしの民に身をやつしている。偽武官に殺されかけてから、十二年の年月が流れていた。男の顔にも過ぎ去った年月が現れてはいたものの、見間違うはずもないのだ。
 仮にこの時、殺されかけた衝撃的な過去を思い出すことさえなければ、央明は何とか逃げおおせていたに違いない。しかし、幼時に受けた精神的打撃が蘇ったことが一瞬の遅れを取らせた。
「翁主さま、お早く」
 ミリョンの焦る声がやけに大きく間延びし、遠くから聞こえるようだ。
 次の瞬間、ダンッと何かが自分に当たる衝撃を自覚し、肩の辺りに灼けつくような感覚を憶えた。
 絶叫するような悲鳴は、ミリョンに違いない。おかしい、やっぱりミリョンの声がはるか彼方から響いてくるような気がする。
「ーッ」
 央明は肩を押さえ、うずくまった。
「奥さま、大丈夫かいッ」
 聞き覚えのある声は、先刻チュソンの道袍を仕立てるための布を買ったばかりの露天商だ。
「何をボウっとしてんだよ、誰か、医者を呼んでくんな」
 露天商が声を張り上げ、ミリョンの泣き声が聞こえた。
「捕まえた、狼藉者を捕まえたぞ」
 どこから別の声が聞こえる。
「お付きのあんたが取り乱してちゃ駄目だ。安堵しなせえ。奥さまの傷はあっしの見た限りじゃア、さほどではねえ」
 この声は、先刻の布屋だろうか。懸命に宥めているようだ。
 そこで央明の意識はスウと暗闇に飲み込まれた。

 下町で騒ぎが起きた時刻より遅れること半刻、チュソンは王宮にいた。いつものように儀賓府に出仕し、変わり映えのしない資料整理で時間は過ぎる。
 そろそろ退出の時間が近いと思しき頃、上官が彼の前に立った。この年上の男は先々代王の公主の良人だ。従って、側室所生の央明を娶ったチュソンより位階は上で正一品である。ちなみに、翁主の良人たるチュソンは現在は従二品で最高まで進んだとしても正二品だ。
「都尉」
 いつも穏やかな白髪交じりの上司だと認識しているが、今日は顔色が冴えない。
 チュソンは資料整理の手を休め、彼を見上げた。上司が口早に言った。
「奥方が町中で刺されたそうだ」
 チュソンが立ち上がった。椅子が立てる音が静まり返った室に大きく響き渡った。その場には数人の附馬がおり、皆が何事かと顔を見合わせている。
「それで、妻は! 負傷したのですか」
 噛みつくように叫ぶチュソンに、上官は沈痛な面持ちで首を振った。
「判らぬ。知らせの内容は、それだけだった。とにかく早く帰った方が良い」
 上官の言葉も聞かない中に、チュソンは詰め所を飛び出していた。
 町外れの自邸までの距離がやけに遠く感じられてならない。こんなときは馬で出仕していれば良かったと後悔しても今更だ。
 小走りに駆けるように屋敷まで戻り、出迎えたチョンドクに声をかけるのさえ忘れて妻の室に急いだ。
 央明は居室に敷かれた夜具に横たわっていた。枕辺にはミリョンが控えている。
 泣き腫らしたと見え、ミリョンの双眸は充血していた。チュソンを認めるや、ミリョンはその場に両手をつかえた。
「私がお側についていながら、申し訳ございませんでした」
 涙混じりの声だった。チュソンは静かな声で言った。
「そなたのせいというばかりではなかろう。とにかく、何があったのか聞かせてくれるな?」
 チュソンが冷静であったのがミリョンを勇気づけたらしい。彼女は昼前に央明の伴をして下町に出たことから、布屋で買い物をした直後、央明が騒ぎに巻き込まれて刺されたことまでをかいつまんで話した。
 ミリョンの話は一見、不自然ではない。しかし、チュソンは何か違和感を憶えた。
 刺された央明が意識を失ったのは、怪我のせいではなく、むしろ精神的打撃のせいだ。布屋が機転の利いた男なのも幸いした。布屋は倒れた央明の傷口を検め、傷口を布できつく縛り応急の止血を施した上で、近所の町医者を呼びに行かせた。
 布屋が見た通り、駆けつけた医者は、央明の傷は深手ではないと断言したという。その場で傷の手当てを済ませ、屋敷から呼んだ輿に央明を乗せ、連れ帰ったのだ。
 念のために羅氏と懇意の老医師が呼ばれ、央明の傷を診たが右上腕部の切り傷は浅く、縫合する必要もなかった。一ヶ月程度で癒えるだろうとの診立てだ。
 ただし化膿すると厄介なため、化膿止めと痛み止めが処方された。今し方、匙で根気よく処方薬を飲ませたところだとミリョンはチュソンに報告した。
 とにかく、妻の傷がたいしたものでなくて良かった。王宮から屋敷までの道中、チュソンは最悪の事態を想像しては蒼くなっていた。最早、妻のいないこの世界にたった一人生きてゆくだけの勇気はない。それほどまでに、央明の存在はチュソンにとって側にいるのが当然のものになっていた。
 だがと、チュソンは次第に濃くなる疑念を口にした。