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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 一年の最後の月もはや半ばを過ぎた。そろそろ今年も終わりだと示すかのように、下町の露店街も常より忙(せわ)しさも人通りも増していた。
 チュソンが王妃に直談判した五日後である。むろん、央明がその一件を知る由もなく、今日は良人の新しい道袍を仕立てるため、布を求めにきたのである。
 表店が並ぶ一角にゆけば、清国産の上等な絹布を中心に扱う店があるのは判っている。しかし、央明は露店で買うことを選んだ。
 何より、あまり格式張るのを好まないチュソンには、露店で買う布の方が良いような気がしたのである。
 また央明自身が下町を訪れてみたい気持ちも大きかった。何と言っても、ここはチュソンとの出逢いの場所なのだ。二人の縁はここから始まったと言っても良い。
 パク・ジアンというのは、央明が宮殿を出て、お忍びで市井に出掛けるときの名前だ。あの頃、央明は一人、黙って宮殿を抜け出すのを憶えたばかりであった。
 宮殿は広大で、人目の届かない場所は実のところ、結構ある。王宮で生まれ育った央明は一人で遊ぶ中に、そんな場所を幾つか見つけた。例えば後宮の外れには他の場所よりは格段に塀が低くなっている一角があり、そこを乗り越えれば容易に宮外に出られる。
 央明がいつも王宮を抜け出すルート(順路)でもあった。最初の中は見つかる度に保母尚宮にこっぴどく叱られたものの、何度か同じことを繰り返す中に、乳母も諦めたらしい。
 乳母が最も恐れるのは、央明の身に危険が及ぶことだ。しかし、央明はこっそり抜け出しても、いつも無事に戻ってきた。乳母は央明の秘密を知っている。本来の性を隠し、偽りの王女として生きる央明の葛藤を誰より判っていた。
 央明が何故、宮殿を抜け出すのか、乳母なりに理解してくれたのだろう。いつしか乳母は何も言わなくなり、央明は思い立った時、自由に王宮をこっそりと抜け出していた。
 央明がチュソンに出逢ったのは、そんな何度目かのお忍びに出掛けた日だった。
 目当ての布屋は小間物屋の隣にあった。小間物屋は以前、チュソンと二人でここに来た時、彼が白藤の簪を買ってくれた店だ。あの頃、自分たちはまだ祝言を挙げたばかりだった。
 チュソンのことを考えると、何だか妙な気持ちになる。胸の中でたくさんの蝶がさざめいているように弾んだ気持ちになったかと思えば、相反して切なく苦しいような心持ちになってしまう。
 自分で自分を持て余してしまうほど、とても複雑な感情のようだ。そのことをミリョンにだけは打ち明けると、忠実な側仕えは微笑んだ。
ーそれは翁主さまが恋をされているからですよ。私自身は恋をしたことはありませんが、女官仲間で集まって話をする時、内官と恋愛中の友達がいつも話していましたもの。
 恋、恋とは。男ながら女として生きる我が身が恋をするとは。
 央明はミリョンに訊ねた。
ー私が恋をすることが許されるのかしら。
 ミリョンの愛嬌のある丸顔に優しい笑みがひろがった。
ー翁主さま、恋をするのに難しい理屈はありません。常識なぞ軽々と飛び越えられるのが真実の恋というものなのですよ。例えば、身分違いの恋がその典型ではありませんか。
 そして、その常識の中には、央明が気にする性別も含まれているのだとミリョンは語った。
 次いでミリョンは央明に問うた。
ー翁主さま、今、お幸せですか?
 央明が頷けば、ミリョンは晴れ晴れと笑った。
ー良かったです。私の歓びは翁主さまが歓びで一杯のお暮らしをなさることですから。
 チュソンという伴侶を得たことを央明自身より歓んでいるのが実はミリョンだった。
 件(くだん)の小間物屋には今日も若い娘たちが集まっている。央明は賑やかな歓声を上げ、美しい装身具を物色する娘たちをぼんやりと眺め、視線を眼の前の布屋に移した。
 眼前には何反もの布が無造作に積み上げられている。小柄な店主が暇そうに居眠りをしていた。
「済みませんが」
 遠慮がちに声をかけると、船を漕いでいた男が飛び上がった。
「愕かせてしまって、ごめんなさい」
 央明が謝るのに、中年の店主は首をぶんぶんと振った。
「とんでもございません。向こうの小間物屋は満員御礼で忙しいが、こちとらは閑古鳥が啼いている有様でねえ。つい居眠りをしちまってやしたよ」
 いかにも人の良さげな人懐っこい笑みに、央明もつられて笑顔になる。
「絹布を見せて貰えませんか」
 店主は頷いた。
「へっ、へえ」
 眼の前に積んである単布を三つばかり選び、台にひろげる。
「これなんかどうでやしょ」
 央明は小首を傾げた。はんなりとした薄紅色、若竹を思わせる、すっきりした竹色、菖蒲の花びらの紫色、どれも美しい。
 店主が問うた。
「どなたがお召しになるか、お伺いしても?」
 央明は正直に応える。
「良人です」
 ?良人?と口にするときは、流石に嬉しいような恥ずかしいような気持ちだった。
 店主が破顔した。
「そりゃア、羨ましい限りだねぇ。奥さまが旦那さまのお召しものをお仕立てになるんでやすか?」
 央明が頷けば、男は破顔した。
「ますます旦那さまが羨ましいよ。それでしたら、こんなのはいかがでしょう」
 男は背後を振り返り、後ろに積み上げている布の中から一つ引っ張り出した。見たところ、後ろの棚の中は、露台に並べているより上物ばかりのようである。
「これは、うちの中でも最高級品の部類に入るんですが、なあに、店を構える一流の絹店の品に比べても負けやしねえ」
 男は慣れた手つきで、単布を広げて見せた。水が流れるように艶やかな絹が宙を舞う。
 それは、まさしく清らかなせせらぎのようでさえあった。ひと口に水色といっても、本当に様々な蒼が入り交じった微妙な色合いだ。陽光の辺り加減で煌めくのは、それぞれ少しずつ違う青みの糸をたくさん使って織り上げているからだろう。
 見る角度によっては深みのある群青に、また浅黄色にも、緑を帯びた蒼にも見える不思議な布だ。まさに細いせせらぎで始まり、河が至る所で形や様を変え、ついには大河になるー水の流れを想像しそうになる。
 央明が呟いた。
「とても良いと思うわ」
 店主が嬉しげに顔をほころばせた。
「でやしょ?」
 背後のミリョンが進み出て、財布代わりのチュモニから銭を出した。
 町の露店で売っているにしては、かなりの値である。店主はもう、ほくほく顔だ。
「美人の奥さまにこの最上級の絹で道袍を仕立てて貰えるたアね。奥さま、お召し物が仕立て上がったら、是非、旦那さまにお召し戴いてまたお越し下さいよ」
「そうするわね」
 央明は笑顔で頷き、ミリョンが風呂敷に包んだ絹布を持つ。
「毎度ありがとうございます!」
 威勢の良い声に送られ、二人は布屋の前を離れた。
 ミリョンの声も弾んでいる。
「良いお買い物ができて、良かったですね」
 央明は頷いた。
「そうね、あの店主はかなりの目利きだと思うわ」
 下町の露天商だけれど、表店の絹店でも見かけないような逸品がたくさんあるようだった。
 ミリョンが不思議そうに言う。
「何故、表にちゃんとした店を持たないのでしょう?」
 央明は何とはなしにあの小柄な男の気持ちが判るよう気がした。
「きっと下町が好きなのではないかしら」