裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
「私の父が翁主さまを私に賜りたいと願い出た時、伯母上の立場であれば幾らでも断れたはずです。無理に真相は言わなくても良い、断る理由であれば、何とでも言い逃れられたでしょう。さりながら、伯母上は真実を知りながら、許可されましたよね。あれは、父と私に恥をかかせるおつもりがあったのでは?」
央明を妻としたことを恥じるつもりは一切なく、このような言い方をするのは愛する人に申し訳なかった。けれども今は王妃との駆け引きを無事終えることが先決だ。
危うい沈黙を孕んだ静寂に、ひとしきり笑い声が上がった。
「なるほどのう。息子は父親とは比べものにならないほどの狸、いや狐か?」
王妃はもう微塵もー少なくとも表面上は狼狽えてはいなかった。流石は伏魔殿で生き抜いてきた女狐の頭領だけはある。
チュソンを狐呼ばわりした王妃こそが、まさに狐そのものではないか。
王妃は婉然とした笑みさえ浮かべていた。
「そなたと央明が結婚して短くはない時間が流れている。今になって、のこのこと現れたのは何ぞ含むところがあるからであろう。まどろっこしい物言いは面倒なだけだ。必要な要件だけを聞こう。何が望みだ?」
チュソンもまた余裕の笑みを浮かべ、対峙した。内心は余裕どころか、心臓はバクバクと音を立てて今にも破裂するのではないかと危ぶんでいたほどだったけれど。
いかほどの刻が流れたのか。実際にはたいした時間ではなかったと思うが、王妃は我慢できなかったようだ。
案の定、食らいついてきた。
「央明の秘密を餌に、私を強請(ゆすり)に来たというわけか? 欲しいものは何だ、金か、それとも官職か」
附馬は官職にはつけないのが原則ではあるが、王妃が国王を動かせば例外は作れる。
「それとも、秘密を黙っている代わりに、側室を持ちたいとでもいうのか」
チュソンはスと顎を上げた。所詮、この伯母の頭ではそれしきの俗な交換条件しか浮かばないというわけだ。欲得尽くでしか動けない、物を考えられない人間の思考の限界なのだろう。
「私が望むのはただ一つ、王子さまの復権」
先刻以上の重い空気が立ちこめた。王妃は言葉もなく、ただチュソンを見ている。
ややあって、王妃が沈黙を破った。
「央明を王子として公表するというのか?」
チュソンは即答した。
「さようにございます」
「して、何がそなたの得になる?」
チュソンは憐れむように言った。いや、真実、この伯母を心から哀れだと思ったのだ。
一体、この女人は他者のために生きるということが一度たりともあったのだろうか。
赤の他人のためではなくとも、我が子のためでも良い。だが、チュソンが考えるに、伯母が我が息子を世子にと執着したのは、ひとえに自分が王の母として権勢を振るうためではなかったか。
「何の利もありません」
むしろ、央明を愛している我が身としては、愛する妻との別離しかない。それでも。
チュソンは央明を本来の性別に戻し、堂々と第一王子として生きる道を歩ませてやりたかった。
王妃の紅い紅を塗った唇がうごめいた。年齢には不似合いな真っ赤な唇は、さながら人を喰らうという鬼女のようだ。チュソンは鮮血を思わせる鮮やかな口許を見つめていた。
「断ると言ったら?」
チュソンは端座した両膝に乗せた拳にこれ以上ないほど力を込めた。関節が白く浮き上がった。
ー今だ、このときのために用意していた切り札を使え。
自分を叱咤する。
「世子邸下にすべてをお話しします」
「何だと?」
流石に王妃の顔色が動いた。今や美しい仮面は剥がれ、生来の気性が出た険しい形相だ。
チュソンは相手の反応を確かめながら言った。
「世子邸下は真っすぐなご気性のお方です。ご自分の地位が本来は表には出られない兄君のものであると知ったら、どうなさるでしょうか? 一時の激情のあまり、おん自ら位を降りて兄君に世子の座を譲ると言い出されかねませんよね、伯母上」
王妃が蒼褪めた面で紅い唇をわななかせた。
「そなたはこの伯母を脅迫する気か?」
チュソンは笑った。
「とんでもない。懼れ多くも、この国の王妃さまを私ごときの若造が脅迫するなど。思い及びも致しません。ただ」
チュソンは意味ありげに王妃を見た。
王妃がゴクリと唾を飲む音が静寂に響く。
「ただ、私も世子邸下同様、曲がったことが何より嫌いでして。本来であれば殿下の第一王子であられるお方が?日陰の王女?などと呼ばれる屈辱に甘んじておられるのがお労しくてならないのです。もし伯母上が王子さまの復権を認めて下さるなら、私めは余計なことは一切申しません」
王妃が呻くように言った。
「翁主の存在はどうするつもりだ! 復権するとしても、降って湧いたようにいきなり成人した王子を表に出すわけにはゆかぬ」
チュソンは笑みを刷いたまま言う。
「翁主さまは運つたなく亡くなられたことにしても良し、実は双子の兄君が生きておられ、事情があって隠して育てられていたが、この度めでたくお披露目されることになった。筋書きは伯母上であれば、いかようにも作れるのではありませんか。第一王子のお披露目そのものは、さして難しくはないでしょう」
王妃が唸り声を上げた。
「そなたは末恐ろしい男だな、チュソン。そなたが附馬となり政治に携わることなかったのが良かったのかどうか。判断に苦しむところだ」
「お褒めに預かり、光栄にございます、伯母上」
王妃がついと視線を逸らした。
「私はこの国の王妃だ。たとえ伯母甥の間柄とはいえ、礼儀はわきまえよ」
先ほどは伯母と呼ばないのかと言った口が乾かない中から、もうこれだ。しかし、チュソンは指摘はせず、慇懃に頭を下げた。
「これは失礼いたしました、中殿さま」
寸分を置かず、言葉を継ぐ。
「して、私めのお願いはお聞き届け頂けるのでしょうか、中殿さま」
短いしじまが流れ、王妃が腹立たしげに喚いた。
「良かろう。殿下には私からお話しする。いかに何でもすぐに公表というわけにもゆかぬゆえ、王子としての披露目は近く折を見てとする。それで満足か?」
「はい」
チュソンは立ち上がった。言質は取った、これ以上の長居は必要ない。書き付けなどなくとも、世子に真相を知られたくないなら、王妃は約束を守るしかないのだ。
「それでは、これにて失礼いたします」
チュソンは丁重に頭を下げ、前を向いたまま数歩進み、扉が開いたところで退出した。貴人には尻を向けてはならないとされている。
扉が女官たちによって閉ざされる寸前、王妃が憎々しげに呟いたのだ。
「この私に恐れ知らずにも取引をしようなどと思ったことを必ずや後悔するであろうぞ、チュソン」
だが、その時、既に廊下にいたチュソンが王妃のほの暗い声を聞くことはなかったのであるー。
ある愛の詩〜裸足の花嫁〜
今日も都の目抜き通りは、大勢の人波でごった返している。道の両脇には露店が建ち並び、少しでも高く売りつけようとする店主、裏腹に少しでも安く買おうとする客が声高に話す声がそこここで聞かれた。
央明は軒を連ねる露店を一つ一つ、興味深く眺めて通り過ぎてゆく。背後をミリョンが守るようにピタリと付いており、央明は時折振り返ってはミリョンに話しかけた。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ