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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 男として生まれたチュソンには、よく判らない心境である。だが、伯母が王妃としての座を守り抜くために怖ろしい罪を犯した。
 チュソンはそのことを知っている。昔から後宮を伏魔殿と呼ぶ人がいるというが、まさしく言葉通りかもしれない。水上では女君という国王のために美しく咲く花が百花繚乱でも、水面下では互いに牽制し合い、隙あらば相手を陥れようとする熾烈な世界だ。
 すべては王の寵愛を得て、誰よりも先んじてこの国の世継ぎを産むため。まさに伯母はそのために央明の母を殺し、生まれたばかりの央明さえ亡き者にしようとした。
 しばらく吹きすさぶ雪風の中に佇み、中宮殿を眺めていた。あまり突っ立っていても何をしにきたのかと怪しまれる。
 殿舎の前にはいつもながら、女官が扉の両脇に控えている。チュソンは彼女らの一人に近づき、伯母に取り次いで欲しいと頼んだ。
 待つでもなく殿舎の両開きの扉が開かれ、年配の尚宮が姿を見せた。伯母の側近にして中宮殿の筆頭尚宮である。
 小柄でふくよかな尚宮は一見、柔和そうに見えるものの、よくよく注意して見れば、優しげに細められた眼はけして笑ってはいないのに気づく。まさに、あの伯母という主君にして、この側近ありだ。
 尚宮に案内され、艶のある廊下を歩き、控えの間を経て王妃の居室に通されたのは以前と同じだ。
 控えの間の扉越しに、尚宮が恭しく伺いを立てた。
「中殿さま、附馬都尉がお見えです」
 すぐにいらえが返った。
「通せ」
 また女官によって扉が両側から開けられ、チュソンは尚宮に促され室に入った。
 両手を組んで眼前に持ち上げ、その場に拝跪する。更に立ち上がり、頭を下げた。王妃に対する最高礼である。
 伯母は相変わらず一部の隙もなく装いを凝らしている。煌びやかな屏風を背に、華やかな牡丹色の座椅子にゆったりと座していた。
 チュソンの母ヨンオクも年齢を感じさせない美貌であるが、この伯母も五十半ばには見えない若々しさだ。まさに、屏風に描かれた大輪の牡丹そのものの花のかんばせである。
 王妃は親しげな笑みを浮かべ、チュソンを迎えた。
「珍しいこともあるものだな。我が甥がわざわざ訪ねてきてくれるとは」
 ここを訪ねたのは、結婚の挨拶以来だ。およそ半年以上前である。
 口では?我が甥?だなどといかにも気を許しているように見えるけれど、騙されてはいけない。伯母はチュソンを血の繋がった甥だなどとは片々たりとも思っていない。
「ご無沙汰ばかり致し、心苦しい限りにございます」
 チュソンもまた、にこやかな笑みを浮かべた。
「今日は中殿さまにお願いがあって参りました」
「ホウ?」
 単刀直入に切り出したチュソンに、王妃はいっそ優しげな笑みを浮かべる。
「これはますます珍しい。そなたが私に頼み事をするとは、都に紅い雪が降るぞ」
 まったく笑えない冗談ではあるが、チュソンは大真面目に返した。
「中殿さま、確かに私がここに参上するまでには雪が舞っておりましたが、私が見た雪は紅くはなく白い色をしておりました」
 一瞬の間があり、王妃がけたたましい笑い声を上げた。いささか耳障りなほどだ。
「流石は父と息子だな。そなたは弟によく似ている。空惚けた顔をして、飄々と戯れ言か本気か知れぬ物言いをするのだ。そうやって、いつも対する者を煙に巻く」
 チュソンは平然と言った。
「滅相もない。私ごときが中殿さまに戯れ言など申し上げましょうか。すべては真実のみです」
 王妃が肩をすくめた。
「なるほど、確かに兵判より、そなたの方が一枚上手と見える」
 ややあって、語調に凄みが加わった。
「つまりは、父親より息子が食えないということだな」
「お褒めに預かり、恐悦至極に存じまする」
 途端に王妃がまた弾けるように笑った。
「そうか、褒められて嬉しいか」
 ふと王妃が口を噤み、まじまじとチュソンを見た。品定めをされているような、何とも嫌な気分だが、表には出せない。
「そなたの父がここを訪ねて、央明の降嫁を願いにきたことがあった。あの時、そなたの歳を聞いたような気がするが、幾つであったか」
 チュソンは淀みなく応えた。
「十八になりました」
「ー十八」
 王妃は呟き、どこか虚ろな声で続けた。
「そなたは我が子と同年であったかの」
 チュソンは首を傾げた。
「は?」
 王妃が遠いまなざしになった。
「そなたは知らずとも当然か。生まれたときにはもう息絶えていた子だ。世子の三つ違いの兄になる」
 全身に緊張が漲った。話がいきなり核心に近い部分に及ぼうとしている。王妃はまったくそのつもりがなく口にした言葉であろうが、まさにそれこそが今日、チュソンがここに来た理由なのだ。
 言葉を選び、慎重に応える。
「私めも存じております」
 王妃が軽く頷いた。
「知っておるのか。亡くした子の歳を数えるのは愚かの極みというが、実際に子を失うた親にとっては何の意味もない残酷な言葉よのう」
 王妃は独りごち、チュソンを見た。
「失うた子がそなたのように健やかに成人していればな。私の中では刻は止まったままで、あの子は永遠に赤児のままであるというのに、今ふっと、もしや失うたあの子が戻ってきたのではないかとそなたを見て埒もないことを考えた」
 これには何とも返しようがなかった。王妃の科白には死して生まれた我が子を見送った母の悲哀がこめられていた。
「そのように他人行儀な物言いをせず、伯母と呼んではくれぬのか?」
 だが、情に流されて怯むわけにはゆかなかった。チュソンはここに来た本来の目的を思い出そうとする。
 むしろ王妃が亡くした第一王子を話題に出したことはチュソンには好都合であった。
 チュソンはあくまでも、何げない風を装った。傍目にはふと思いついたとしか見えなかったろう。
「それはそうと中殿さま、第一王子といえば、王室は今おひと方、私と同年の王子さまがおわすと聞いております」
 刹那、王妃の麗しい面から微笑がかき消えた。
「どういう意味だ?」
 チュソンは一語一句、わざと相手に聞かせるためにゆっくりと言った。
「言葉通りの意味です。私と同年の健やかな王子さまがいらっしゃると専らの噂ですが」
 スウと王妃の切れ長の眼(まなこ)が細められた。予想通り、剣呑な光が閃いている。
「そなた、何が言いたい?」
 チュソンは数歩いざり進み、低声になった。
「その科白は今更だと思われませんか? 伯母上はすべてを知りながら、央明翁主さまを私の許に遣わされた。婚儀を挙げた男女が何をするか、伯母上がご存じないはずもありますまい」
 王妃の顔が赤黒く染まった。
「そなたッ、いかに伯母とはいえ、王妃に向かって無礼であろう」
 恥じらう歳でもあるまいにと半ば呆れ、チュソンは口の端を引き上げた。
「よろしいのですか? 大声を上げられて他の者に真相を知られて困るのは伯母上ではありませんか?」
「うぅ」
 王妃の口から怨嗟の呻きとも何ともつきがたい声が洩れた。
 チュソンは更に声を落とした。
「伯母上は翁主さまの秘密をご存じだ。その上で彼(か)の方を私に降嫁させた。何故ですか?」
 王妃は応えない。チュソンは我が物顔で続ける。