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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 確かに、あの伯母なら否定はできない。元々、チュソンは伯母が疎んじる異母弟の息子だ。いざとなれば手を下すのに躊躇いはないだろう。
 チュソンは重い息を吐き出し、央明を見た。
 央明が微笑んだけれど、それが無理をした取り繕ったものだとは判る。
「私のために無茶はしないで下さい。私なら、もう良いのです。王子として生きる運命は、とうに諦めました」
 空々しい笑みは、央明の言葉と心が真逆であるのを如実に物語っている。
 チュソンは割り切れない想いのまま、言うともなしに言った。
「ならば、今まで通り女として生きてくれますか? 私の妻として」
 央明が薄い笑みを貼り付けて頷く。
 ふいにチュソンの中で一時は鳴りを静めていた激情が頭をもたげた。
ー心にもないことを言わないでくれ。あなたは女として生きることをけして心から受け入れているわけではない。
 瞼に浮かぶのは、十一月末に見た鮮やかに剣を持って舞う姿だ。あんなものを見て、たった今の言葉を鵜呑みにできるはずがない。
 判っていた。央明に非があるわけではない。むしろ、彼(央明)は一番の犠牲者なのだ。愛する彼(央明)のために動きたくとも動けないのは、央明自身のせいではない。
 なのに、不甲斐ない自分の無力さを突きつけられ、チュソンは苛立っていた。祖父のように政界の中央で権力をふるいたいとはけして思わないけれど、同じ羅の一族でありながら、対外的な力を何も持たない自分が歯がゆく情けなかった。
 突如、チュソンは狙いをつけた獲物に飛びかかる猛獣のように央明を押し倒した。荒れ狂う激情のまま妻に覆い被さる。
 央明は抵抗らしい抵抗さえ、しなかった。そんな妻の両手を持ち上げて縫い止め、チュソンは妻を見下ろす。
 二人の顔が近づき、唇と唇が触れそうに近づいた。互いの呼吸さえ聞こえてくるようだ。
「ー私が今、何を考えているか判る?」
 央明は何も言わず、彼を見上げているだけだ。今、その美しい澄んだ眼(まなこ)に自分はどのように映じているのだろう。きっと男の欲望に染まった醜悪な貌をしているはずだ。
 チュソンは更に顔を寄せた。二つの唇が束の間、羽根のように軽く触れ合い離れた。
「あなたを滅茶苦茶にしたい。あなたの奥深くに猛る私自身を沈めて、あなたが泣き叫び許しを請うまで抱きたい」
 それでも、央明は何も言わなかった。刹那、彼の双眸に浮かんでいた感情は何なのか。チュソンの思い違いでなければ、諦めというよりは哀しみとほんの少し信頼が混じっているように見えた。
 既に昂ぶりきっていたチュソンが妻から離れるのは、ありとあらゆる理性を働かさなければならなかった。
 だが、妻の瞳に浮かぶ、ひと欠片の信頼を失うわけにはゆかないのだ。振り絞る口調で言う。
「行ってくれ、私が獣になって、あなたを滅茶苦茶にしてしまう前に」
 チュソンが背を向けている間に、央明が起き上がる気配がし、静かに室の扉が閉まった。
 チュソンは室を横切り、庭に面した両開きの扉を全開にした。途端に冷気が室内に流れ込んでくる。温められた室の温度が一挙に下がるのは判ったけれど、熱情のあまり昂ぶった身体を落ち着かせるには持ってこいであった。
 先刻見た時、雪は降り始めたばかりだった。今年の冬初めての雪は止むどころか、ますます勢いを増している。
 都漢陽にいよいよ冬が来たのだ。チュソンは空を振り仰ぐ。降り始めはまだしも蒼い空がかいま見えたのに、今や冬空には暗雲しかない。降りしきる雪は早くも庭に薄く積もり始めている。
 藤棚の向こうには、こんもりと茂った緑の茂みが見える。真紅の艶やかな椿の枝にも、花にも雪が載っている。雪を戴いた寒椿は、何故か婚礼衣装を纏った央明を彷彿とさせた。
 あの時、自分はまだ央明が実は男であるとは知らず、恋い焦がれた王女を妻にできる純粋な歓びで満ちていた。
 今、あの日に戻りたいかと問われたら、自分は一体どのように応えるのか。
 チュソンの幸せは、央明と共に生きることだ。それは嘘ではない。しかし、自分の幸せよりは愛する者の望みを優先したかった。彼が本来の性を取り戻すのを願うならば、叶う限り彼の心に寄り添いたかった。
 気づかない中に、相当の刻が流れたようだ。空が暗いのは何も雪雲のせいだけでなく、日没が近いからかもしれない。濃墨を一面に塗り込めた空からは、ひっきりなしに白い切片が落ちてくる。
 冬に降る雪は、春に舞う桜花の花びらにも似ている。長い冬もいつかは明ける。都に再び春が来て、桜が咲く頃いや、この庭にもまた匂いやかな白藤が満開になる頃、自分たちはどうしているだろうか。
 幾ら思い描こうとしても、チュソンにはどうしても、その日が想像できないのだ。
 復権が成功してもしなくても、央明と我が身は所詮、共に歩む未来はないのか。チュソンはいつになく悲観的な想いになりながら、いつまでも寒風にさらされていた。

 その日、チュソンは常のように儀賓府に出仕した。本来であれば昼過ぎまで詰めていなければならないのだが、同僚には所用があるからと昼前には詰め所を後にした。
ー中殿さまにご挨拶さ。
 何用かと問われ、ありのままを口にしただけなのに、同僚からは羨ましげに言われた。
ー同じ附馬と呼ばれても、そなたと俺では、えらい違いだな。何といっても、そなたは今をときめく羅氏の御曹司だ。おまけに、領議政が祖父で中殿さまが伯母と来てる。大きな声では言えないが、俺の妻の両親は王族といっても名ばかりの端くれだ。俺は一生、官職にもありつけず、日がなゴミ同然の資料の整理をして終わりさ。
 儀賓府を出て後宮に脚を向ける最中、真冬の風が容赦なく頬を嬲る。チュソンは思わず身を震わせ、中宮殿に赴く脚を速めた。
 ふと眼前を白いものがちらつき、知らず眉をしかめる。五日前の初雪は一晩中降り続き、翌朝には都に一面の雪化粧を施した。町の至るところで子どもたちの歓声が響き渡り、忙しなさげに道や屋根に積もった雪かきをする大人たちの姿が見られた。
 初雪は翌朝にはすっかり止み、銀世界を背景に清々しいほどの青空が広がるも、また夕刻から降り始めて次の朝方まで降り続いた。
 そして漸く止んだかと思えば、また雪だ。
 たまになら風情があるで済むが、こう雪続けでは流石に、げんなりとしてしまう。
ー私のために無茶はしないで下さい。私なら、もう良いのです。王子として生きる運命は、とうに諦めました。
 儚げな央明の微笑が今も記憶に蘇る。すべてを諦め切ったかのような黒い瞳は、真冬の夜空のように哀しいほど澄み渡っていた。
 今、チュソンは戦場に向かう兵士の心持ちにも似ていた。建国当初の王朝草創期ならともかく、今は王朝も二百年続く太平の世だ。
 むろん、チュソンに実践の経験があるはずもない。
 しかし、刃を交えるだけが戦いではない。大切な者を守るための駆け引きもまた言ってみれば、戦いであるのは変わらない。
 殊に相手があの伯母であれば、油断は許されない。一瞬の気の緩みが破滅を招くだろう。チュソンは改めて気を引き締め、いっそう足足取りを速くした。
 粉雪の舞う中、偉容を誇る中宮殿は美しい。両班の娘として生まれた者であれば、一度はこの壮麗な殿舎の主人になるのを夢見るのだろうか。