裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
乳母とただ一人の女官が身の回りの世話をし、?日陰の王女?と呼ばれていた。もちろん、王女の暮らす殿舎には一定数の女官はいたはずだ。が、当の王女自身が必要以上に他者を寄せ付けず、やはり人員がいるとはいえ、仮にも王の娘としての体裁を整えるだけの女官数にははるかに及ばなかったというのが現実だ。
王宮に暮らしていたとはいえ、事実上、王女は乳母と女官ミリョンの三人で暮らしていたのも同然である。そんな王女であってみれば、かえって王宮暮らしよりは今の方が大勢の人目を意識してしまうのだとしても理解はできる。
そのせいで、余計に夫婦仲がよそよしいのだとしたら、やはり環境を変えてみるのも一つの手段ではないか。これまでとは違い、本当に二人きりになることで二人の関係の変化を期待できるのではと一縷の望みを抱いていた。
三泊四日の予定で漢陽を発ったのが二日前である。到着した日は既に夕刻になっており、翌日は住職に挨拶後、金堂で読経に耳を傾けた。午後からは夫婦連れだって再び金堂に参詣し、およそ一刻に渡って祈りを捧げた。
住職は雪のような太い眉が印象的だ。彼の話では、はるか昔、この辺りを治めていた代官には長らく子どもが授からなかったという。結婚十年しても妻に懐妊の兆しはなく、周囲から側妾を持つように強く勧められたところ、代官は妻を伴い、この御寺に参詣し三日三晩に渡って不眠不休で祈りを捧げた。
ー何卒、我らに子を与え給え。
三日目、彼も妻も流石に疲れ果て、しばし浅い微睡みに落ちた。その最中、輝く光の球(たま)が妻の胎内に吸い込まれる吉夢を見たそうな。
果たして、妻はほどなく懐妊が判明した。生まれたのは健やかな男児であった。以来、この寺の本尊観世音菩薩は子の無い夫婦に子を授けてくれると何世紀にも渡って語り継がれてきたのだ。
チュソン自身は、特に迷信深いわけでもないし、かといって伝説を否定するわけでもない。この世にはまだまだ判らない神秘もある。王女と二人で参詣することで、いずれ子が授かるなら望むところだ。また、煩わしい人目がない場所で、夫婦水入らずで過ごすのも望ましい。いや、罰当たりな話だけれど、もしかしたら、後者の気持ちが大きいかもしれない。
寺に滞在中は広大な境内に点在する宿泊者用の小屋に滞在している。小屋といっても、夜具も何もかも一通りは揃っており、一戸建ての小さな離れのようなものだ。観玉寺の開創は古く、高麗時代にまで遡る。高麗王室は仏教に深く帰依し、観玉寺も手厚い保護を受けてきた。
朝鮮王朝時代に入り、儒教が国教とはなったが、この御寺は変わらず王室の庇護を得ている。高麗時代に建立された建物に朝鮮王朝時代になってから増築され、高麗様式、朝鮮様式が渾然一体となった全容は荘厳かつ威風堂々としており、時代の重みを感じさせる。
滞在二日目で本来の予定は終わった。三日目こそ夫婦だけでのんびりと過ごしたいと考えていたチュソンだ。宿泊用の小屋で過ごすのも良し、王女が望むなら境内だけでなく、寺の周辺を少し歩いても良いと考えていた。
御寺そのものがかなり標高の高い場所にあり、その分、冬の到来は下界よりは早い。条件が揃えば、朝は雲海がそれこそ海のように湧きいで、寺や周辺の峰々が白い大海に浮かんだように見えるともいう。
絶景でも知られるため、わざわざ都から訪ねる旅行客もいるほどだ。御寺を囲む急峻から真冬に吹き下ろす風は冷たく、冬はしばしば豪雪に見舞われる。
風光明媚な旅行地としても知られるため、チュソンは王女に散策も提案した。すると、王女からは予期せぬ返答があった。
ーお寺の背後の山では珍しい薬草が採れると聞いています。
実際、漢陽の下町では、ここの山で採れたという薬草が高値で取引されている。まさか王女が欲得尽くで薬草を採ろうとは考えもしなかった。
ーそなたは薬草にも興味があるのか?
チュソンが問えば、王女は少し恥ずかしげに頬を染めて頷いた。はにかんだ様が抱きしめたいほど可愛いーとは、もちろん彼女を警戒させるだけなので、口にはしなかった。
いっぱしの儒学者でも難解とする?中道政要?なる清国渡りの漢籍を読もうとするほどの才媛だ。薬草の知識があったとしても、何の不思議もない。
若い女性にしてはいささか型破りであるのは間違いないけれど、チュソンは、そういった妻の意外性をも含めて丸ごと愛していた。
それに、央明には化粧(メーク)術が巧みで、化粧師になりたいという女性らしい願いもある。次々に明らかになる妻の新たな一面はチュソンをより彼女に夢中にさせこそすれ、興醒めになることはなかった。
妻の願いを入れ、滞在三日めは朝から山に登った。寺の厨房で握り飯とキムチだけの簡素な弁当を二人分拵えて貰い、チュソンは央明と山に分け入ったのだ。
だが、生憎と一刻ほど進んだところで央明が小石に足を取られて転び、脚を挫いた。更には天気が崩れ始めるという二重の不幸に見舞われてしまった。
チュソンが御寺に着いてからのあれこれを思い出している間にも、空はますますどす黒く染まり、遠方からはゴロゴロとかすかに不穏な雷鳴さえ聞こえてきた。
まずいと思うまもなく、冷たいものが頬に触れ、チュソンは思わず頭上を振り仰ぐ。薄墨を溶き流したような空からポツリポツリと雨雫が落ちてきていた。
「どうやら、降り出したようだな」
チュソンは呟き、また背後を振り返った。
「央明、少し急ぎたいのだが、大丈夫か?」
こんな時、無理だと弱音を吐くような女人ではない。妻は気丈にも即答した。
「大丈夫です」
しかし、走ろうとした傍から、央明は小さく呻いてしゃがみ込んだ。
「央明!」
チュソンは急ぎ妻の傍に寄った。やはり無理をさせるべきではなかったと後悔しても遅い。央明は右足の甲を抑え、うずくまっている。顔色がいつになく悪いのは、周囲が薄闇に包まれているからだけではないだろう。
「大丈夫?」
央明は何も言わず、脚を押さえたまま俯いている。チュソンは自分もしゃがみ込み、妻に背を向けた。
「私がおぶってゆこう」
「ー」
央明が息を呑んでいる。美しい面には逡巡が判りすぎるくらいはっきりと浮かんでいた。
チュソンはやや強い口調になった。
「躊躇(ためら)っている時間はない。直に強い雨になるだろう。とにかく一時の雨宿りができる場所を探さねば」
央明はけして愚かではなく、聡明な娘だ。彼女はチュソンを強い瞳で見返し、頷いた。
それでもまだ実際に負われるときは迷っているように見えた。が、すぐに思い直したように彼の背中に身を預けてくる。
チュソンは柔らかな重みを背中に感じつつ、妻を負うて必死に先を急いだ。一時の雨宿りができる場所をとは言ったけれど、この山奥にそんなものが都合良く見つかるとは思えない。
見渡したところ、周囲は自分たちが進む細い道が辛うじて見分けられる程度で、小道の両側には樹木が生い茂っている。秋たけなわとて、どの樹も紅や黄色に色づいている。これが晴天であれば、なかなかに風情ある眺めなのかもしれない。
こんな場所では洞窟も見つけられない。あるとすれば、猟師が狩りの途中で休憩のために使う狩猟小屋か炭焼き小屋か。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ