裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
短いしじまの後、央明が小さく頷いた。
「ならば、何故、そなたは私から離れようとばかり言うんだ?」
央明が小さな声で応えた。
「私といれば、あなたはいつまでも幸せにはなれません。私は旦那さまに幸せになって頂きたいのです」
チュソンは穏やかに問うた。
「まだ子どものことを気にしている?」
央明がかすかに頷く。チュソンは大きな息を吐いた。
「央明、幸せって何だろう?」
ハッと央明が顔を上げた。妻と視線を合わせ、チュソンはゆっくりと言葉を続ける。
「幸せとひと口に言っても、人によって色々な形があるだろうね。私とそなた、それから私の両親、そなたに仕えるミリョン。人の数だけ、それぞれが思い描く幸せの形は違う」
「ー」
央明は何も言わない。チュソンは半ば独り言のように呟く。
「例えばミリョンは恐らく、そなたが幸せになることが彼女の幸せなのだろう。では、私の幸せは何なのか、そなたは考えてみたことがあるか?」
央明は顔を背けて言った。
「健康な女人を娶り、子を儲けて人並みの人生を歩むことではありませんか」
チュソンがひそやかに笑った。
「果たして本当にそうなのかな? 人並みに生きるのを幸せだと感じる人は多いだろう。さりながら、生憎と私自身はそうではない」
チュソンは立ち上がり、央明を引き寄せた。
「何故、判らない? 私の幸せとは、そなたがずっと側にいてくれることなんだよ」
央明は無言だ。チュソンは幼子に言い聞かせるように、辛抱強く繰り返した。
「私の幸せは自分で決める。それは、あなたと生きてゆくことしかない。まだ判ってくれてなかったんだな」
チュソンは央明の頭に顎を乗せた。髪に香油をつけているのか、ほのかな花の香りが鼻腔をくすぐる。しばらくの間、彼は妻の艶やかな髪に鼻を埋めていた。
「観玉寺から戻ってまもなく、父上を訪ねた」
話の転換に央明が身じろぎするのが判り、チュソンは彼女から離れた。また火鉢を間に向かい合う。
チュソンの様子から、央明はただならぬものを感じたようである。
「何か大切なお話をされたのですね」
「うん」
物問いたげな妻の視線に、チュソンはひと息に言った。
「そなたの話だ」
央明が愛らしい顔の鼻に皺を寄せた。こんな表情をすると、臈長けている普段より数歳は幼く見える。
「私のー話ですか?」
「そうだ。事後承諾で申し訳ないが、そなたの秘密を父上にはお話しした」
チュソンが心配したほど、央明は取り乱しも怒りもしなかった。静かな瞳でチュソンを見つめ返している。
「そなたにはまた、そなた自身の考えがあるのは承知している。それでも、私は央明、そなたには陽の当たる場所を歩いて貰いたい」
「陽の当たる場所」
チュソンの言葉をなぞる央明は、茫然としている。チュソンは央明に視線を合わせ、深く頷いた。
「私が望むのは、そなたの復権しかない」
央明が息を呑んだ。当然だ、彼だとて幾度となく夢に見たに違いないだろう。
チュソンは央明に真摯な眼で問いかけた。
「一つだけ訊く。そなたは現状に満足しているか?」
央明の返事はない。チュソンは質問を変えた。
「男に戻りたいと願ってはいないか?」
央明はまた息を呑み、少しく後、ようよう言葉を紡いだ。
「それはーもちろん、戻れるなら戻りたいです。でも、今になっては叶わぬ夢だとは重々承知しております」
予想していた応えだった。過ぐる日、人知れず男姿で華麗な剣舞を舞っているのを図らずも見た。あのときから、この質問の応えは判り切っていた。
チュソンは声を低めた。
「本当に叶わない夢なのか?」
「どういう意味ですか?」
つられるように、央明も声を落とした。
チュソンは断じた。
「やり様によっては、そなたの望みは叶えられると思う」
「ーっ」
央明の興奮と動揺が烈しく伝わってくる。チュソンは宥めるように妻の手に自らの手を重ねた。彼は実家を訪ねた日、父に話した自分の考えを央明にも繰り返し説明した。
央明はチュソンの話に黙って耳を傾けている。
チュソンの考えでは、条件をつけさえすれば、王妃に央明の復権を認めさせるのは十分可能だ。しかしながら、慎重な父は少し違った。
王妃を徒に刺激することは、そのまま央明の身の危険に繋がるというのだ。
チュソンが話し終えた後、央明は何らかの想いに耽っているようであった。針でつつけば割れそうな緊迫が二人を包んでいる。
その場の雰囲気にはそぐわず、央明がチュソンに向けたまなざしは穏やかなものだった。
「父上さまのおっしゃる通りだと思います」
チュソンはわずかに首をひねった。
「本当に、そうなんだろうか。条件を上手く整えれば、中殿さまを説得する見込みは十二分にあると思うんだが」
央明がひそやかに笑った。どこか儚げな、冬の寒風に季節を間違えて開いた花が散るような風情だった。
「王妃は私の存在を良しとしません。はっきり言えば、私が生きていることそのものが邪魔なのです。今、私がこうして辛うじて生きるのを許されているのは、王位継承権のない王女として存在しているからなのを忘れてはならないと思います」
つい声が尖った。
「そんなの、おかしいよ。あなたは他ならない現王直系の第一王子なのに」
「仕方ありません。私は後ろ盾となる外戚を持たない身ですし、ましてや羅の一族ではありませんから」
央明が静かに言った。聞き分けのない悪戯っ子に噛んで含めるような言われ様である。
?羅の一族?と言われ、チュソンがハッとした。途端に罰の悪い想いになる。
「面目ない。私の一族が王室を絡め取る蔦のように幅をきかせているからだ。あなたには、どのように詫びて良いか」
国王でさえ、領議政や王妃には遠慮している。今や朝廷の要職は羅氏の者が独占しており、羅氏でなければ、まともな出世はできないとさえ言われているご時世である。
チュソンの言葉に、央明が微笑んだ。
「済みません、私の方こそ由なきことを申し上げました。忘れて下さい」
「あなたは今のままで良いというのか?」
このまま性別を偽り、男ながら女子として生きる運命に甘んずるのか。言葉にはしなくても、央明にチュソンの意図は伝わったはずだ。
央明は頷いた。その眼には涙が光っていた。
「旦那さまがそこまで私のことを考えて下さっているとは想像もしませんでした。ありがたいことだし、嬉しいです。ですが、旦那さま、王妃は怖ろしい女です」
そこで言いよどみ、央明はまた続けた。
「旦那さまが私の復権を訴えれば、旦那さままでが王妃には目障りとなるでしょう。私はどうなっても構いません。本来であれば、生まれ落ちたその日、王妃の手の者に殺害されるはずでした。ですが、旦那さままでが私のために危険に巻き込まれるのを私は絶対に望みません」
最後の言葉には、央明自身の強い意思が滲んでいた。央明は自分のために危険を冒して欲しくはないと言っているのだ。
思い惑っているチュソンの耳を、央明のひそやかな声が打った。
「たとえ旦那さまが血を分けた甥だとしても、世子邸下のゆく手を阻むとすれば、王妃はあなたを躊躇わず消すでしょう」
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ