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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 それにしても、後宮では建前上、王妃を?母?と呼び、嫁しては姑を?母?と呼ぶ自分がどちらでも母の前では息を潜めていなければならないとは、皮肉な巡り合わせではないか。
 チュソンには申し訳ないが、どちらの?母?も央明にとっては無慈悲極まりない鬼のような母であった。
 
 室内の温度が一段と下がってきたようだ。
 チュソンは火鉢の炭を継ぎ足し、室内にいても、かじかみそうな手指の先に息を吹きかけて温めた。
 室内で火を焚いていてもこれだから、戸外は尚更であろう。彼は試しに部屋を横切り、両開きの戸を押し開いた。
 案の定、鈍色の雲が折り重なった雲間から、ひらひらと白い花びらが舞い降りていた。
「雪、か」
 呟く側から、吐息が白く細く消えてゆく。
 彼の居室の前には、藤棚が設えられている。五月初夏、二人が祝言を挙げた当日は、この藤棚には白藤が満開となり香気を放っていた。嫁ぐ娘のために父王が用意した庭である。
 真冬の今、藤棚には裸木が寒々とした枝を伸ばしているだけで、花があるはずもない。
 それでも雪が降り枝先を飾れば、多少は風情のある眺めになるだろう。
 チュソンがなおも殺風景な庭を眺めていると、背後でかすかな人声が聞こえた。
「旦那さま、少しよろしいでしょうか」
 愛する妻の声に、チュソンの気持ちが俄に浮き立った。
「構わないから、入ってくれ」
「非番でお寛ぎのところ、お邪魔して申し訳ありません」
 央明はいつもながら遠慮がちに言い、慎ましく頭を垂れた。
 チュソンは妻の顔を認め、破顔した。
「道理で寒いはずだ。とうとう降ってきた」
 央明が即座に頷く。
「初雪ですね」
「早いものだ。そなたと祝言を挙げて、もう七ヶ月も経つとは。この分だと一年や二年はあっという間に経ちそうだな」
 こうして自分たちは共に歳を取ってゆくのだろう。春も夏も秋も冬も。最愛の人の笑顔を見られる幸せほど尊いものはない。
 チュソンが満ち足りた想いに浸っていると、央明が言った。
「少しお話しをしても?」
 チュソンは眼をまたたかせた。央明の声音が固い。あまり良い予感はしなかった。
 彼は寒気が入り込まないよう扉をきっちりと閉め、火鉢の側に座った。
「話とは、何だろう」
 内心では胸騒ぎがしていたが、努めて鷹揚にふるまった。
 母ヨンオクが突如として訪ねてきたのは、つい四日前である。何事もなければ良いがと祈るような気持ちでいたが、結局、母はまたひと騒動起こして帰っていった。母は過去、二度も央明相手にヒステリーを起こしている。母の方に落ち度があると判っているだけに、チュソンとしては辛い立場だ。
 まったく頭の痛い話だ。央明の蒼褪めた小さな顔、暗い表情から察するに、母のゆき過ぎたふるまいについて話したいことがあるのかもしれない。
 央明もまた火鉢の側に座り、しばらくは所在なげに火鉢の紅くいこった火を見つめていた。ここはやはり自分から話の糸口を示した方が良いのか。
「先日は改めて済まなかった」
 チュソンが沈黙を破ると、央明が弾かれたように面を上げる。今初めてチュソンを認めたとでもいうかのように眼を見開き、慌てて首を振った。
「とんでもありません。あのときは私にも非がありました。私は良かれと思ったのですが、結局、お義母さまに私の作った化粧水を押しつけるような形になってしまって」
 チュソンは静かに笑った。
「そなたがそのように言ってくれて、私としてはありがたい。畏れ多くも国王殿下のご息女をお迎えし、母上もまだどのように接したら良いか判らないのだろう。いま少し長い眼で見て差し上げて欲しい」
 央明はそっと頷いた。チュソンは内心、おやと思った。
 先日の今日だ、妻が来たのは母の一件だとばかり考えたのだが、違うのだろうか。
 とりあえず、妻の言い分を聞こう。チュソンが一方的に喋っていたのでは、央明もなかなか話したい話を切り出せないだろう。
 と、央明がいきなり両手をつかえた。
「私にお暇を下さい」
 刹那、脳天をいきなり殴りつけられたような衝撃が走った。よもや妻がわざわざ訪ねてきた理由がこれだとは!
 以前はともかく、観玉寺から帰って以来、二人の間には大きな波風はないーどころか、順風満帆のように思っていた。しかし、それはチュソン一人の身勝手な思い込みにすぎなかったとでもいうのか?
 今、口を開けば、自分でも聞くに堪えない言葉を吐いてしまいそうだ。或いは妻をこの場に押し倒して、滅茶苦茶になるまで抱き潰してしまうかもしれない。
 央明はこの瞬間、自分がどれだけ危険に直面しているか自覚していない。央明の側にいるのは普段のチュソンではなく、猛り狂った狼か雄牛なのだから。
 チュソンは意思の力を総動員して、己れの中で暴れ狂う荒々しい感情を抑え込んだ。
 内心の動転と憤りとは裏腹に、漸く発した声は我ながら褒めてやりたいほど静かなものだった。
「私を捨てるのですか?」
 央明が美しい眉を苦しげに寄せた。
「そのような言い方は止めて下さい」
 少しの躊躇いの後、央明が思い切ったように言った。
「旦那さまは先ほど、義母上さまのお話をなさっておいででしたね」
 また虚を突かれ、チュソンは仕方なく頷いた。
「ええ。その通りだが」
「義母上さまのお腹立ちも私、理解できるような気がします」
 チュソンは言葉の意味を図りかねた。
「どういう意味だろう?」
 央明はまた迷う素振りを見せてから応えた。
「義母上さまは、一日も早い孫の誕生をお望みです」
 チュソンは溜息と共に言った。
「失礼な言い方かもしれないが、そんなことは言われなくても判っているよ」
 そもそも母が観玉寺詣でを勧めてきたのも、それが原因だ。
 央明がまた言葉を継いだ。
「いつまで経っても子ができなければ、義母上さまも余計なお腹立ちが募るでしょう」
 ハッと、チュソンは自虐的な笑みを浮かべた。
「健康な夫婦でも、初めての子を授かるまでは一、二年はかかる。私たちはまだ祝言を挙げて一年どころか漸く半年だ。逸りすぎる母がどうかしているんだ」
「そうでしょうか」
 央明の科白には否定的な響きが多分にこめられている。チュソンは無表情に妻を見た。
「健康な夫婦なら確かに一年か二年、遅くとも数年内には授かるでしょう。でも、私たちには永遠に子は授かりません」
 チュソンが怒鳴った。
「そなたは私にどうしろと言うんだ? 私が側室を持って、別の女に跡取りを産ませれば、それで満足なのか!」
 央明の顔が微妙に歪み、顔を背けた。
「ですから、離縁して頂きたいのです」
 チュソンは烈しい眼で妻を見た。
「離縁はしない。どうしても跡取りがいなければ気が済まないというなら、側室を持つ。愛してもいない女を抱いて子を産ませれば良いだけのことだ。央明がずっと側にいてくれると約束するなら、百歩譲って跡取りだけは儲けよう」
 央明の眼に涙が溢れていた。
「私は嫌です。旦那さまが他の女人に微笑みかけるのを側で見ていられる自信はありません」
 央明の涙を見て、チュソンの中で猛っていた感情が波が引くように鎮まってゆく。
 彼は労るような声音で言った。
「自惚(うぬぼ)れた物言いは承知で言うけど、央明は私を好きでいてくれるんだね」