裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
央明に覆い被さるように倒れていたミリョンが身を起こし、叫んだ。
「翁主さま、何故、このようなことを?」
央明はゆるゆると視線を動かし、ミリョンを見た。
「もう疲れたの」
こんなときでさえ、すんなりと女言葉が出てくるとは、滑稽なものだ。物心つく以前から女とした育てられたこの身は、女として生きるすべが既に身に馴染んでいる。
ミリョンが烈しく首を振る。
「死んで何になりましょう」
央明が自嘲気味に笑った。
「少なくとも、私がいなくなって歓ぶ人間が一人いるわ」
中宮殿にいる王妃は、これで漸く世子にとって脅威がなくなったと快哉を叫ぶだろう。
名は出さずとも、ミリョンには伝わったはずだ。彼女は一瞬黙り込み、また叫んだ。
「哀しまれる方もたくさんおられます」
そうだろう。国王である父は哀しむだろうし、チュソンの嘆きも深いはずだ。でも、彼らとて、いずれは忘れる。時は残酷でもあるが、同時に優しい。どんな深い嘆きでも時間が経てば薄れる。
「哀しみはいずれ消えてなくなる」
ミリョンはまたかぶりを振った。
「私はどうなるのですか? 翁主さま、私はずっと忘れられません。翁主さまがこんな風に生命を絶たれたら、私はずっと自分を責めます。何故、お寂しいまま逝かせてしまったのかと一生後悔し続けます。どうして、翁主さまがこれほどまでに苦しまれていることに気づかなかったのかと自分を許せないでしょう」
ミリョンの言葉は涙混じりであった。
「翁主さまがいなくなられたら、私も生命を絶ちます」
央明は茫然と彼女を見た。
「馬鹿なことを言わないで。私の人生は私、そなたの人生はそなたのもの。私が死んだからといって、そなたまでが後を追う必要はないのよ」
ミリョンが涙を拭った。
「でしたら、無益な殺生をなさらないようにして下されば良いのです」
央明の身体から更に力が抜けた。
「お前ってば」
フフッと笑えば、ミリョンもまた微笑んだ。二人はしばらく互いに見つめ合い、やがて声を出して笑った。ミリョンが央明にひしと抱きつき、央明もまたミリョンを力の限り抱きしめた。
五歳年上のミリョンは、央明にとって頼もしい姉のような存在だ。こうして抱き合っても、不思議なことに男も女もなかった。生まれたときから女として生きてきた央明には、女性を恋愛対象として見ることがない。
だからといって、もちろん同類たる男を恋愛対象と認識しているわけでもない。要するに、性愛も含む?恋愛?全般に入り込むのを無意識で拒否しているようなところがある。
男ながら女として生きざるを得なかったゆえに、央明の中では男女関係が一種の触れてはならない禁域になっているのかもしれない。思春期を迎えて以降も、男として女性に時めいたこともなければ、逆に男を恋愛対象として意識したこともなかった。
央明の意識を形作る中で、愛欲に関する部分だけが欠落、或いは麻痺しているともいえる。
どういうわけか、ナ・チュソンに対しては、今まで通りにゆかなかった。チュソンは、央明が無意識に己れの周りに築いた砦を易々と飛び越えた初めての男だ。
抱き合った央明とミリョンは二人ともに泣いていた。ミリョンが泣きながら訴えた。
「今度、懐剣を抜きたいとお思いになったら、亡き淑媛さまやチョン尚宮さまの御事を思い出して下さいませ」
この瞬間、ミリョンのひと言は央明の心を鋭く突き刺した。
顔さえ記憶していない母は、かつて後宮で父王の寵愛を独占したという。微笑めば大輪の芍薬、憂い顔すら華があると称されたほどの美貌だとは今も伝説として残っているほどの佳人であったそうな。
央明は亡き母に生き写しなのだと、父王も亡き乳母も口を揃えて言った。本物の女ならまだしも、男の我が身が絶世の美姫と謳われた母に似ていたとしても少しも嬉しくはない。ただ、生来の女顔や華奢な体躯が性別を偽って生きるには好都合であったのは確かである。
母は息子を女児と偽る約束を王妃に持ちかけてまで、我が子の無事をひたすら願った。母の悲痛な願いを考えれば、やはり央明が自ら生命を絶つことは最大の親不孝になるのだろう。
また重い秘密を守るために生命を削り取った挙げ句、亡くなった乳母の心根をもってすれば、生命を無駄にするのは許されない。
央明の生命を守るために、生みの母と育ての母は共に自分の生命をすり減らした。そのことを忘れるなと、ミリョンは言いたかったのだ。
ミリョンの右手に巻かれた白い包帯が痛々しい。昼間、チュソンの母が来た時、ミリョンは義母に逆らって頬を叩かれた。ミリョンは自ら落として割った茶器の上に転倒し、その際、できた傷である。
央明はミリョンの右手を取ると、また泣きそうな表情になった。
「痛むでしょう」
ミリョンが屈託ない笑みを浮かべる。央明がすごぶるつきの美貌ゆえ、側にいるミリョンはどうしても目立たない。だが、ミリョン自身も世間でいう美人の範疇には十分入る器量よしだ。ミリョンであれば宮仕えを止めて良縁を得られるだろう。
央明はこれまでにも幾度となくミリョンに嫁ぐのを勧めてきた。しかし、ミリョンはいつも笑って受け流すのだ。
ー私は子だくさんの伯母の許にお情けで置いて貰っていたようなものです。ゆえに後宮を出ても、帰る実家があるわけではありません。翁主さまのお優しき心は嬉しいですけど、このまま後宮に骨を埋めるつもりでおります。
央明が後宮にいる限り、ミリョンも側にいるつもりだと言い切っていた。どういう因果か、央明が降嫁することになり、ミリョンもまた一緒に後宮を出ることになった。
後宮を出たら出たで、ミリョンは言う。
ー私は一生、どこにもゆきません、翁主さまのお側にいますよ。
ミリョンにとっては、央明の側が自分の居場所だと彼女はいつも迷いなく言う。
「何のこれしき、掠り傷です。お気になさいますな」
ミリョンは姉が妹にするように、央明の背をそっとさすった。
「お優しい旦那さまをお育てになったのは大奥さまです。今は翁主さまを眼の敵(かたき)にして虐めてばかりですけど、いずれは態度を和らげては下さるのではないでしょうか。翁主さまのお人柄をお知りになれば、誤解も解けると思いますよ」
央明は、チュソンの母ヨンオクの美しい顔を思い出した。チュソンはなかなかの美男であるが、眼許辺りは美人の母にそっくりである。
何故、ヨンオクが自分に敵意剥き出しで接するのか。央明には理由が判らない。
チュソンに告げた言葉は偽りではなく、生みの母の顔も知らぬ自分には、ヨンオクは、この世で初めて?母?と呼べるひとだ。だからこそ、嫁として孝養を尽くしたいと考えているのだけれど、どうやらヨンオクは央明が何をしても癇に障るらしいのだ。
あの凄まじいまでの敵意が本当にいつか消えるのかは疑わしいところだ。何をしても義母の気に入らないのであれば、かえって何もしない方が良いのかもしれない。
チュソンの言うように、義母にはできるだけ顔を合わせない方が良いらしい。今度、義母が来たときは、できるだけ息を潜めて存在を感じさせないようにしよう。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ