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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 央明には寛大な父王でさえ、漢籍を読むと話せば嫌な顔をしたというのに、チュソンは止めるどころか勧めてくれた。化粧師になりたいと夢を話しても、この屋敷にいる限りは好きなようにすれば良いと言った。
 素晴らしく頭の良いだけでなく、広い地平に立って物事を見られる器の大きなひとだ。
 時々、幸せ過ぎて怖いとさえ思う。これは夢で、もしや夜半にふと目覚めてみれば、自分は王宮にいて毎日、変わり映えしない日々が永遠に続いてゆくだけなのではないか。
 そんなことを考えてしまう。
 けれど、これで良いのかと考えてしまうのも事実だ。ある意味で、この幸せが期間限定であるというのは正しいのかもしれない。
 央明自身、彼との生活が永久に続くものではなく、かりそめにすぎないのだとは心のどこかで理解していたのだ。
 この幸せは、あくまでも彼(チユソン)の犠牲の上に成り立つものだと忘れてはいけない。
 央明が側にいる限り、チュソンは真の意味で幸せにはなれない。チュソンの母が央明に向ける強い憎悪は的外れとはいえ、あながち間違ってはいないのだ。
 附馬となることで、前途洋々としていたチュソンは将来を棒に振った。すべてと引き替えにしてまで得た妻は実は男で、子どもは望めない。央明が跡継ぎを生めない以上、養子を迎えない限り、家門はチュソンの代で断絶する。
 チュソンはそれでも良いと言ってはくれた。どうしても家門の存続を望むなら、一族から出来の良い子を養子として迎えても良いのだと。
 けれども、そこまでして彼が央明を側に置く義理は何らない。更に、チュソンの度量の大きさに甘え切っても良いのかという逡巡は常に央明の中にあった。
 彼はどう見ても健やかそのものだ。ちゃんとした妻を迎えれば、跡継ぎを儲けることはできるだろう。
 幸せなのに、苦しいとは妙なものだけれど、今の央明の心持ちはまさにその通りだ。チュソンの優しさを良いことに、今の安穏とした暮らしにどっぷりと浸かる日々は、愛する男に多大の犠牲を強いていることに他ならない。
 彼のためを思うなら、央明は自ら身を引くべきだ。判っているのに、チュソンの春の陽だまりのような笑顔を見ていると、つい先延ばしにしてしまう。
 あと一日。せめて今日だけは彼の側にいたい。優しくされることで、孤独に慣れていた自分は欲深になってしまった。
 もちろん、これまでにも乳母やミリョンが側にいてくれたけれど、ある意味、央明は孤独だった。乳母とミリョンは家族同然で心の支えにはなってくれたものの、心の隙間を埋めることはできなかった。
 誰かに必要とされたい。ありのままの自分をさらけ出したい。ずっと偽りの人生を生きてきた央明は、嘘だらけの自分に嫌気が差していた。央明のすべてを知ってもなお、変わらない愛で包み込んでくれる人。
 出会えるはずもない人と出会った。それがチュソンだった。
 だけど、そろそろ彼を自由にしてあげる潮時なのかもしれない。
 央明は小さな息を吐き、そっと後頭部に手をやった。漆黒の髪は若妻らしく結い上げている。艶髪を飾る白藤の簪を引き抜き、文机に乗せた。
 この簪は過ぐる日、下町の露店でチュソンに買って貰ったものだ。あの日は愉しかった。殊に、あの場所は彼との始まりとなった想い出が詰まっている。
 央明の記憶が巻き戻される。央明の前にふいに現れた小柄な少年。優しげな眼をした賢そうな彼こそがチュソンだった。思えば、あれは央明の初恋だったのかもしれない。
 央明は女の子のなりをしていても、自分が男だという自覚はありすぎるほどあった。だから、男の子のチュソン相手に彼のように堂々と?初恋?だと認めることはできなかった。
 今なら、まさに十年前のあの出逢いこそが初恋であったのだと確信できた。
 チュソンに抱かれて眠っていると、親鳥の翼に包まれて眠っているように安心できる。
 叶うなら、今のまま彼の腕に抱かれて眠り、目覚めてすぐに彼の顔を見たい。
 だが、それはけして夢見てはならない願いだ。
 いつしか、自分が白藤の簪を握りしめているのに気づき、央明はほろ苦く笑った。
 白藤を象った簪は、小さな花の連なりが幾つも垂れ下がっている。花びらには真珠や黄玉があしらわれた、なかなかの逸品だ。
 そうっと愛しい男に触れるように、人差し指で花びらを撫でてみた。
 あのひとから貰ったこの簪で喉を突いたとしたら、きっとチュソンは傷つくに違いない。
 央明は簪を再び髪に挿した。これはいまわの際まで身につけておこう。永の孤独な旅路にもせめて、あの男の存在を少しでも感じられるように。
ー愛しています。
 許されない想いだとは判っていた。チュソンは言葉にして幾度も愛していると気持ちを伝えてくれたのに、央明は彼に我が想いを伝えたことは一度もなかった。
 何度、伝えようとしたか知れない。けれども、チュソンが与えてくれようとする愛と同じ分だけの愛ーもしかしたら、それよりも深く烈しい愛を彼に返すことが正しいのかどうか。
 央明には判じ得なかった。央明がひと言?愛している?と伝えれば、チュソンは歓ぶに違いない。が、愛の言葉は永遠にチュソンを縛る枷となる。たとえ央明が彼の側から消えることになっても、言葉だけは朽ちることなく彼を縛り付けるだろう。再婚もせず、子を儲けることもなく、彼は一人老いてゆく。そんな孤独な人生を彼に強要したくはなかった。 
 央明が願うのは、チュソンの幸せだった。自分の愛の言葉が彼の縛めとなるなら、いっそ言葉にはしない方が良いのだ。
 文机の引き出しを開け、薄紅色の巾着を取り出し、逆さにする。コトンと小さな音を立て、文机に懐剣が落ちた。央明は懐剣を持ち、スと鞘を払う。
 王族や両班の娘は、ひとふりの懐剣を与えられる。護身用の意味だけでなく、もし辱めを受けるような事態になれば、自ら生命を絶つようにと教えも込められていた。
 ?日陰の王女?と呼ばれてはいても、国王の娘に与えられた懐剣は見事なものだ。朱塗りに垂れ梅が螺鈿で象嵌されている。
 刀身を眼の前に掲げると、蝶型燭台で赤々と燃える蝋燭の炎に鈍い輝きを放つ。
 もう、疲れた。央明は眼を閉じた、長い息を深々と吐き出した。
 世間から己れの存在自体を隠すように息を潜めて暮らすのも、男でありながら女の振りを続けなければならないのもご免だ。
ー乳母、私もそなたの側に行って良い?
 とうに遠くに逝ってしまった乳母に心で呼びかけた。
 眼を開き、じいっと刃を見つめる。果たして、ひと突きで首尾良く死ねるだろうか? 死ぬことは怖くないが、できれば長い苦痛を味わいたくはない。
 央明は両手で柄を持ち、刃を己れに向けた。白い喉をめがけて煌めく刃を突き立てようとしたのと、室の扉が音を立てて開いたのはほぼ時を同じくしていた。
「翁主さま(マーマ)っ」
 血相を変えたミリョンがまろぶように走りより、央明に体当たりした。弾みで央明はミリョンと折り重なるように床に転がった。
 あと少しで乳母の許にゆけたのに。央明はぼんやりとした頭で考えながら、仰向けに倒れた体勢で天井を見上げていた。手から力が抜け、懐剣が空疎な音を立て床に落ちた。
 自分には死ぬことさえ、許されないのだろうか。