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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 女装趣味があるわけでもないのに、生まれたときから女児の服を着せられ、女の子として育てられた自分。いや、趣味云々の前に物心ついたときにはもう女装して過ごすことが当たり前になっていたから、特に違和感も不自由も感じなかったというのも皮肉な話だ。
 それでも、長ずるにつれ、息苦しさのようなものは徐々に感じ始めた。十歳を超える辺りまではまだ良かった。幼い頃の男女差は、身体的に殆ど見られないからだ。
 ただ女児のなりをしていれば良かった。けれど、十を過ぎた頃から、ただでさえ立ち居振る舞いに煩かった乳母は余計に央明の身辺に気を遣うようになった。
 本当の女の子であれば、思春期を迎えれば身体に丸みが出て、やわらかな曲線を帯びるようになる。しかし、少年の央明はいつまでも線が細く、女性らしい丸みが出るはずもなかった。
 どれだけ美しく装おうとも、本当の女性のようにはゆかないのは当たり前だ。乳母であった保母尚宮は幼い主人の秘密を守り抜くのに懸命であった。女性らしく見せるために、必要に応じて胸に詰め物をし、臀部にもチマの下に布を重ねて工夫した。
 また挙措については特に厳しく指導された。これも幼い中はまだ良かったのだ。十二歳を過ぎて声変わりが始まった頃から、乳母の鋭い声が飛ぶ回数が格段に増えた。
 喋り方だけでなく声の出し方から始まり、うっかり低い地声を出そうものなら、容赦なく叱責された。
ーよろしいですか、秘密が露見したそのときは翁主さまのお生命も亡きものとお覚悟なされませ。
 乳母は繰り返し央明に言い聞かせた。
 男であるからこそ、より女らしく。それも幾度となく言い諭された言葉だ。
 そのために、裁縫、料理、刺繍、舞から伽耶琴、果ては染色まで徹底的に仕込まれた。
 どんな賢婦にも引けをとらないように、女の中の女と謳われて遜色がないようになれと叩き込まれた。
 乳母が短い生涯を終えることになったのも、すべては我が身のせいであると思っている。生母淑媛が亡くなって以来、央明の生命は常に風前の灯であった。今にも消えそうな小さな弱々しい焔を身を挺して囲い、消えぬように守ってくれたのが他ならない乳母であった。
 母と違い、乳母は殺されたわけではなかった。しかし、あまりにも途方もない秘密を死守することに疲れ果て、彼女は寿命を縮めたのだ。
 可哀想な乳母。せめて央明が成人するまで生きていて欲しかった。そうすれば、多少なりとも親孝行の真似事くらいはできたのに。
 乳母が亡くなった日のことはよく記憶している。あれは央明が十四歳の冬だ。
 午前中、いつになく気分が良いと言うので、央明は乳母に得意の化粧をしてあげた。
ーこの紅は私には派手すぎますでしょう。
 はにかむ乳母に、央明は真顔で言った。
ー乳母はまだまだ若いのだから、これくらいが丁度良いのよ。
 乳母の口紅に塗ったのは、はんなりとした桜色だった。春を告げる薄紅色の愛らしい花の色だ。
 乳母に化粧をしてあげた後、ついでに枕辺で央明自身も鏡を覗き込んで化粧をしてみた。
 その姿を横たわって眺めていた乳母は、はらはらと涙を散らした。
ー翁主さまが本当に姫さまであられたら、よろしかったのに。翁主さまなら、朝鮮一のお美しい花嫁御寮になられたでしょう。
 央明は乳母に近づき、その手を取った。満足に食事が取れないから、肉がそげて痩せてしまった手を両手で包み頬に押し当てた。
ー私はどこにもゆかないの。ずっと乳母の側にいる。
 判っている。王女として生きながらも本当の女人ではない自分は、一生ゆき場はない。結婚すれば、たちまちにして身体の秘密が露見してしまう。
 だから、自分は一生涯、王宮を出られない。?日陰の王女?と半ば憐れまれ半ば蔑まれながら、王室の厄介者として死ぬまで飼い殺しにされるのだ。
 央明は乳母を哀しませたくなくて、折角した化粧をすべて落としてしまった。そんな央明を見て、乳母はまた泣いていた。
 夕刻、央明は一旦、乳母の側を離れた。この頃ではどこにもゆかず、ずっと乳母の側に居たのだ。丁度、ミニョンが乳母のために作った粥を運んできてくれたので、受け取りに立ったのである。
 室の扉を開け、小卓を床に置いた央明は甲斐甲斐しく粥を木匙で掬った。
 熱くないようにフウッと息を吹きかけ、呼びかける。
ー乳母、乳母。ご飯の時間よ。
 でも、乳母は瞳を開かなかった。最初は眠っているのかと思ったのだ。
ー乳母?
 何度呼びかけても返事がない。流石におかしいと思い、少し大きな声で呼んだ。
ー乳母!
 それでも、乳母は眼を開けなかった。央明は震える手を乳母の口許にかざした。既に呼吸が止まっていた。
ー乳母っ。
 央明は息絶えた乳母に抱きつき、号泣した。
 お願い、私も連れていって。こんな孤独で広い世の中に一人ぼっちは、あまりに淋しすぎる。
 乳母だけが心の支えであった。弱い自分を守り続けてくれた乳母をいつしか守れる強い自分になりたいと願っていたのに。
 乳母は央明の成長を待たず、旅立った。
 眠っているかのような安らかな顔なのが、せめてもの救いだった。央明の悲鳴に飛んできたミニョンがすぐに医官を呼んできたものの、やはり乳母は既に亡くなっていた。
ー苦痛は殆ど無かったはずです。
 医官は言葉少なに語った。実際、乳母は眠りながら亡くなったのだと聞いた。
 冬の透明な陽差しが室の障子窓を通して差し込んでいた、小春日和の夕暮れ、央明を十四年間、手塩にかけて育ててくれた優しい乳母はひっそりと亡くなった。
 もし、乳母が今、生きてここにいたら何と言うだろうか。
 一生、王宮という豪奢な鳥籠から出ることは叶わないと信じていた自分。そんな自分が図らずも人の妻になるだなんて、誰が想像しただろう?
 チュソンであれば、央明を育ててくれた乳母をも大切に遇してくれたに違いない。
 もしかしたら、今なら乳母に少しなりとも楽をさせてあげられたかもしれないのに。
ー翁主さま、お幸せですか?
 いずこかから、懐かしい声が聞こえる。央明は小さく頷いた。
ー幸せよ、乳母。
 チュソンは央明の性別を知った上で、彼自身を欲してくれている。とても希有なことだと央明は判っていた。
 央明をそれでも求めてくれているのは、チュソンが央明を一人の人間として愛してくれているからだ。
 いつだったか、央明はチュソンに言った。
ー男だとか女だとか関係なく、友達になれたら良い。
 その願いがまさに実現した形だ。
 ーばかりか、夜には愛しい男の腕の中で眠りにつき、朝にはまた彼の腕で目覚める。
 時には政治について語り合い、時には古今東西のあらゆる話題を種に心ゆくまで議論を戦わせる。
 流石に最年少で科挙に首席及第しただけあり、チュソンはあらゆる知識に精通していた。央明の投げかけるどんな疑問にも、淀みなく応える。チュソンは央明にとって良人であり、友であり、師匠でもあった。 
 何より、彼は央明に言ってくれた。
ーありのままのあなたで良い。あなたがあなたらしく生き、笑っていることが私自身の望みなんだ。