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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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「たったこれだけの量を作るのに、どれだけの時間がかかるか。ご存じなんですか? この化粧水で手荒れは治るけど、作る翁主さまの手は逆に荒れまくりです。薬草を綺麗に洗って干して、熱湯で煮出した汁を蒸留するんです。そんな工程を何度も繰り返し、しかもそうやって絞ったわずかな汁を何種類か混ぜ合わせるんですよ。それなのに、大奥さまは、王女さまの気紛れな遊びだとでも?」
 ミリョンがかなり前の段階から、室の外で話を聞いていたのは明らかだ。
 刹那、怒鳴り声と共に空気を打つ乾いた音が響いた。
「ええい、煩いッ」
 ヨンオクに打たれたミリョンがよろめき、床に倒れた。生憎とミリョンが倒れた場所は、ミリョン自身が落として割った茶器が散乱していた。
「ーっ」
 央明が声にならない悲鳴を上げ、ミリョンに縋り付いた。央明は立ち上がり、母に向かって言った。
「母上さま、何故、こんな酷いことを?」
 母が癇性な声を張り上げた。
「使用人の分際で私に逆らうからだ」
 央明がふんわりとひろがるチマを両手で握りしめた。
「お言葉ですが、ミリョンは女官です。れきとした位階も持っております。単なる使用人、下女ではありません」
 母が一笑に付した。
「先ほどの話をもう、お忘れか? 王女であろうが、女官であろうが、王宮を一歩出れば、そのようなものは一切関係ない。ましてや、そなたは当家に嫁がれたのだ。義母に対して、いかにふるまうべきか礼節を知らぬ嫁に仕える女官もまたしかりということだな。主君が主君なら、仕える者も仕える者、まったくもって、なっておらぬ」
 母は語気荒く言い捨て、チマの裾を翻して去っていった。
 またしても、母の来訪はさんざんな結果に終わった。
 チュソンは脱力し、とりあえずチョンドクを呼び、母の見送りは任せた。
 央明の手を借り、ミリョンはゆっくりと身を起こしている。粉々になった陶器の欠片の上に倒れたのだ。さぞかし酷い怪我をしているかと案じたけれど、心配したほどではなさそうだ。
 転んだ拍子に床に手をついたので、手のひらに数カ所、小さな切り傷がある程度である。
 央明の美しい瞳からは、ひっきりなしに涙が流れ落ちていた。
「大丈夫?」
 央明は涙を手で拭いながら、手巾でミリョンの傷ついた手を優しく包んだ。
「私のために、そなたまでが怪我をするなんて」
 ミリョンは気丈にも微笑んでいる。
「何を仰せられます。私が余計なことを申し上げたばかりに、かえって翁主さまがまた大奥さまに睨まれてしまうことになりました」
 央明はかすかに笑い、首を振った。二人は見つめ合い、形にはならない言葉を心で交わし頷き合っている。
 美しくも、揺るぎない主従の絆であった。ああやって、央明は後宮でも唯一の理解者であり味方であるミリョンと手を携え、日々をやり過ごしていったのだろう。
 そう、まさしく日を過ごすのではなく、やり過ごしてきたのだ、彼は。それが?日陰の王女?と呼ばれた央明の生きてきた哀しき宿命であった。
 チュソンは静かに央明の側に寄った。
「済まない。そなたを守ると誓っておきながら、この体たらくだ。前回よりもっと酷いことになってしまった」
 央明はうっすらと笑み、首を振った。
「私の方こそ、旦那さまが今日は止した方が良いとおっしゃったのに、のこのこと出ていって。母上さまをご不快にさせてしまっただけでした。私が考えもなく、あのようなものを差し上げてしまったのが悪かったのですね」
 央明は母を少しも悪くは言わなかった。どころか、涙を浮かべて謝罪した。
「申し訳ないことをしました。私が出ていかなければ、母上さまと旦那さまと久しぶりに親子水入らずで愉しい時間を過ごせたでしょうに、私が台無しにしてしまった」
 央明の頬を涙の粒がころがり落ちる。細い肩が震えていた。
 チュソンは堪らず央明を抱き寄せた。
「そなたが謝る必要はない。事態をここまで悪化させたのは母だ」
 何故、母は央明をここまで憎むのか? チュソンには母が央明に対してあからさまな敵意をむき出しにしているのは判った。
 以前、父が言ったように、嫁である央明が息子を奪ったと信じ込んでいるのだろうか?
 チュソンは女人ではないし、ましてや人の親となった経験もない。ゆえに、母の気持ちは理解できない。にしても、母の央明に対する態度は常識をはるかに越えている。
 今後、央明が何と言おうと、妻を母に近づけまいとこの時、チュソンは改めて決めた。
母が央明に対して憎しみを露わにする限り、妻を母の毒気に当てるのは忍びなかった。
 母と対する度、央明は心ない言葉や仕草に傷つき、涙を流すことになるのは間違いない。
 母がもし央明に対しての理不尽なわだかまりを捨ててくれさえしたら、そのときは歓んで母をこの屋敷に迎えよう。
 果たして、そんな日が本当に来れば良いのだが。か細い背中が震えている。チュソンは沈んだ心持ちで、妻の背をそっと撫でた。
 少し離れた場所では、ミリョンが黙々と床に散らばった欠片を拾い集めている姿が眼に入った。

  六花(ゆき)

 翌日の夜、央明は自室にいた。文机には?中道政要?が一冊、ページも開かずに載っている。
 これはチュソンが買ってきたものだ。央明が持っていた?中道政要?は義母が破り捨ててしまったからである。
 優しい男(ひと)だと思う。愕くべきことに、央明が女ではなく男だと知っても、彼の気持ちは変わらなかったらしいのだ。
 これには何を隠そう、央明自身がいまだ信じられないでいる。
 当世、衆道と呼ばれる男同士の性愛は大っぴらに語れるものではなかった。それも大抵は貴人が美しい少年を侍らせ、性愛の対象とする寵童趣味が大半である。男と男の真剣な恋愛といったものは成立しないとの考え方が主流なのだ。
 そんな風潮の中、両班家の教養を備えた青年であるチュソンが央明を偏見なき眼で見てくれたーというのは、良い意味で衝撃的なことだ。
 央明は我が身をずっと半端者だと思ってきた。身体的欠損があるわけではない。どこからどこまで正真正銘の健康な男子として生まれた。
 そう、それこそが央明にとっては大きな不幸の始まりともいえた。央明がこの世に産声を上げる十四日前、腹違いの兄が死んで生まれた。そのときから、まだ生まれてもいない央明の運命は狂い始めたのだ。
 仮に死産した兄が生きていたらと考えることはある。兄が生きていたら、我が身も恐らくは神が与えた本来の性そのままの人生を生きていたろう。
 または、我が身が男子ではなく女子であったなら。埒もない夢想を捨てられなかった。
 どうせ女として生きてゆかねばならぬ運命(さだめ)であれば、いっそ女の身体を与えて欲しかった。天を恨んだことは一度や二度ではない。
 だが、死んだ兄が生きていたらと仮想するのと同じくらい、自分が本物の女であったらと夢見るのは愚かなことだった。現実は変えられない。死んだ児は生き返らないし、男が性転換するはずはないのだ。