裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
「観玉寺にお詣りした時、お寺の裏山に登ったのです。山には様々な薬草が自生していると聞いておりましたが、本当でした。これは私が薬草を摘み、自分で作った自家製の化粧水なんです。肌の弱い方でも使って頂けますし、美白効果もあります。消炎作用もあるので、どんな肌質の方にも合う自信を持ってお勧めできる化粧水ですよ」
山を降りる帰り道、央明は持参した籠に山のように薬草を摘んで持ち帰った。大方は、それを材料に作ったのだろう。
ヨンオクは手にした小瓶を毒薬でも入っているかのように薄気味悪げに見た。
「私は若い砌から決まった店でしか化粧水は買わぬ。ましてや、素人のそなたが作った化粧水など」
あたかもゴミのように、小瓶を卓上に放った。央明の顔がサッと曇った。
チュソンは小瓶を拾うと、取りなすように言った。
「母上、央明の作った化粧水は女中たちにもすごぶる評判が良いんです。冬には乾燥して荒れて困っていたという者はこれで治ったといいますし、赤児のおしめかぶれにも効く、まさに万能薬と評判です」
事実、チョンドクの倅が襁褓荒れし、傷が痛むのか夜泣きが止まなかった。夫婦共に仕事に支障が出るほど寝不足になっていたという話をしたところ、央明がこの化粧水をチョンドクに与えた。
数日、根気よく化粧水をかぶれた部分に塗っていたら、いつしか綺麗に治ったというから愕きだ。ついでに自分も顔に塗ったら、肌はすべらかになり、心なしか悩みの種であったソバカスも薄くなったという。水仕事の手荒れにも効くので、チョンドクの妻はお金を出しても良いから、もっとたくさん欲しいと言ってきたのだ。
母の細く整えられた眉が完全につり上がった。
「そなたは一体、日がな屋敷で何をしているのです?」
詰問口調に、央明がピクリと肩を揺らした。
母は央明の動揺には頓着せず、まくしたてる。
「いつぞやは書見をしていましたね。?内訓?ならともかく、殿方が読むような漢籍に現を抜かしていた。今度は何なのですか! 降嫁された王女さまが暇つぶしに化粧水作りの真似事をして遊んでいると?」
央明のチマを握る手に力がこもったのが判った。彼女は小さな声で言った。
「暇つぶしの遊びではありません。私なりに真剣に作っております」
母が世も末だと言いたげに天を仰いだ。
「真剣ですと? 何故、そなたがそのようなことに真剣にならなければならないのです? いつかも言いましたね。そなたがまずするべきことは別にあるのが何故、判らないのですか?」
央明が唇を噛みしめた。
「屋敷内の差配も問題なくやっております」
突如、母の金切り声が響き渡った。
「一家の女主人がやるべきことは、屋敷の差配だけではないッ。祝言から何ヶ月経っているか、自覚はあるのですか?」
央明は応えない。母がここぞどばかりに言った。
「七ヶ月です。両班家の奥方は何も屋敷の差配だけが務めではありません。あなたには当家の跡取りを産んで頂かなければならないことは、よくよく承知でしょうね。それがあるからこそ、私はチュソンに観玉寺詣でを勧めたのです。どうせ作るなら、怪しげな化粧水もどきを作るより、すみやかに子を孕む薬でも作りなさい」
あまりの露骨な言い様に、チュソンは顔色が変わった。央明は大きな瞳を一杯に見開いている。涙の雫が目の縁に煌めいていた。
あまりといえば、あまりの言いぐさだ。
「母上、お言葉ではありますが、私たちが結婚してまだ七月(ななつき)です。子の話は、早くても一年が経ってからでもよろしいでしょう」
母の美しい面が蒼褪めた。まずい、母の前で央明を庇えば、余計に逆上するのだと忘れていた。けれど、到底見ていられなかった。
王女からいきなり自家製化粧水を見せられ、愕いたのも無理はない。しかし、央明は良かれと思い、母を歓ばせたくて贈ったのだ。
自身が使うかどうかは別にしても、もう少し言い様があったはずである。
母が露骨に溜息をついた。
「チュソン、あなたは嫁御に底抜けに甘いのね。嫁御が漢籍を読み耽っていたときも、あなたは知っていて許しているようだった。確かに我が家の嫁御は王族で、やんごとなき方をお迎えしたという自覚は私にもあるわ。また、チュソンが翁主さまを恋い慕うあまり、わざわざ国王殿下にお願いし、お迎えした方であることもね」
ヨンオクはチュソンから央明に視線を移した。
「でもね、言わせて頂きますけど、翁主さまであらせられようと、ひと度、嫁がれたからにはもう我が家の嫁なのよ。いつまでも王女気分で気随気ままな暮らしをなさるわけにはゆかないの。両班家の嫁は、後にも先にも家門を存続させる跡継ぎを産むことに尽きるわ。それは翁主さまもよくご存じでしょう? 両班より王室の方がよほど後嗣は必要なのだから」
央明はうなだれていたかと思うと、顔を上げた。
「私の心得が足りませんでした。お詫び致します、母上さま」
母が肩をすくめた。
「判れば良いわ」
何とも救いようのない気まずさが室内に満ちた。流石にこれ以上は居辛いと見え、母が立ち上がった。
「大監さまも私も、初孫の誕生を楽しみしているの。良い知らせを一日も早く、お願いね」
しまいはチュソンに言ったようである。
と、扉が開き、ミリョンが入ってきた。そろそろ茶が冷めた頃とあり、お代わりを持ってきたのだ。
母はそれでも央明の作った化粧水を一度は手にしたのだけれど、思い直したのか、卓に放り投げた。投げ方が悪かったのか、小瓶はコロコロと転がり、卓から落下した衝撃で割れてしまった。
弾みで中の化粧水が床に飛び散る。
央明よりもミリョンが息を呑んでいた。
ヨンオクは事もなげにミリョンに向かい、顎をしゃくった。
「丁度良いところに来たわ。ここをきちんと片付けておきなさい」
ミリョンの手から盆が落ちた。先刻以上に耳障りな音が響き渡り、急須や湯冷ましが粉々に割れた。
ミリョンが央明の側に駆け寄り、床に落ちて割れた小瓶に眼を潤ませた。
「大奥さまには人の心がおありなのですか?」
ヨンオクの顔にはありありと当惑が浮かぶ。
「何と申した?」
ミリョンは涙ぐみ、央明を見つめていた。
「化粧水を作るには相当の時間と手間暇をかけます。一度に大量にはできないし、たくさん作っても長持ちはしないので、必要なだけをその都度作るのです。今日、大奥さまに差し上げた化粧水は他の方に差し上げるために、翁主さまが心を込めて作ったものでした。翁主さまはまた、手を真っ赤にしながら同じものを作らなければなりません。なのに、折角お作りになった化粧水を台無しにするなんて」
ミリョンが怒ったのは化粧水が駄目になったことより、むしろ、台無しにしても謝るわけでもなく、罪の意識さえ感じないところにあった。チュソンにはミリョンの怒りがよく理解できた。
母は呆れたように言い放った。
「そのようなことは知らぬ。翁主さまが好きでなさっていることであろう」
ミリョンの顔が真っ赤になった。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ