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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 案の定、現れたチョンドクは眼を丸くして母を見ていた。もっとも、愕きは一瞬でひた隠し、いつものように丁寧にヨンオクに頭を下げた。
「ようこそ、奥さま」
 行き届いた挨拶に、ヨンオクは満足げに頷いた。チュソンは咄嗟にチョンドクと視線を交わした。
ー母をよろしく頼む。
ー承知しました。
 そこは乳兄弟、長年のよしみで以心伝心だ。何とか母がこの屋敷を出るまで、使用人たちが襤褸を出さなければ良いのだが。
 チュソンは母に言った。
「私は着替えを済ませてから参ります。母上は先におくつろぎになっていて下さい」
 母はチョンドクに案内され、客間に向かった。チュソンが居室に入ってほどなく、扉越に央明の声がした。
「旦那さま、よろしいでしょうか」
「ああ」
 扉が開き、央明が淑やかに入ってくる。今日は紺色の上衣に真紅のチマを合わせてい。チマには控えめに花の刺繍が施されている。簡素でどちらかといえば地味なデザインだが、央明の美しさ若さをかえって引き立てている。
 艶髪は後頭部で結い上げ、淡水真珠と黄玉(ホワイトトパーズ)をあしらった白藤の簪だけだ。簪は五月の下町逢瀬(デート)でチュソンが彼女に買ったものだ。
 どこから見ても、たおやかな若妻にしか見えない。罪作りなほどの美貌である。
 央明は自ら化粧をするのだと言った。屋敷の女中たちを集めて化粧を施すばかりか、彼女たちの化粧術指南までやっている。
 ?奥さまの化粧術指南?は大好評で、最近では、隣家の女中までもが参加しても良いかと訊ねてくるほどだ。
 央明は基本的に薄化粧が好きなようである。もっとも、これほどの美貌だから、化粧など必要ないのかもしれない。現に閨で見る妻は殆ど化粧をしていないが、チュソンは素顔の妻も十分に美しいと思っている。
 チュソンは鷹揚に言った。
「どうした?」
 央明はすべるように入ってくると、チュソンに頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
 幸せを感じる瞬間だ。愛する人に出迎えられる歓びを実感できる。
 チュソンは央明に手伝って貰い、着替えを済ませた。着替えは普段ならチョンドクの受け持ちなのだ。
 央明が何か言いたそうにしている。チュソンは甘い声で言った。
「何か?」
 央明が思い切ったようにひと息で言う。
「母上さまがお越しと聞きました」
「うん。客間に通って貰っている」
 央明がチュソンを真っすぐに見上げた。
「私が母上さまにお茶をお持ちしても良いでしょうか」
 チュソンは言葉に窮した。この場合、言葉を飾っても仕方ない。ありのままの気持ちを伝える。
「そなたの気持ちはありがたいが、どうだろうね。私としてはやはり以前のこともあるから、正直、心配だ。あまり気が進まないなら、無理をする必要はないんだよ。チョンドクが万事上手くやってくれるだろう」
 と、央明は真顔で首を振る。
「前にもお伝えしましたように、母上さまには嫁として心を込めてお仕えしたいと考えています。顔を合わせないにしても、いつまでもというわけにもゆかないでしょう。むしろ、互いを避けていればいるほど、余計に気まずくなるのではないでしょうか」
 央明の言葉は一理あった。チュソンは素直に認めた。
「そうだな。そなたの言う通りかもしれない。どうせ対面しなければならないなら、避けてばかりいるのはかえって良くないかもしれないな」
 央明が微笑んだ。
「それでは私、すぐにお茶の支度をして客間にお持ちしますね」
 央明の声は心なしか弾んでいた。チュソンは室を出る央明を微笑ましい気持ちで見送った。
 客間に通った母は、紫檀の卓に座っていた。長方形の重厚な卓に椅子が四脚並んでいる。 チュソンは上座の母の左斜向かいに座った。
「十一月末だったかしら、あなたが来たと父上からお聞きしたのよ」
 その先は言わないが、何故、母にも会ってゆかなかったのかと苦情を言いたいのだ。
 チュソンは笑いながら言った。
「ご挨拶もなしで、申し訳ありませんでした。あの夜は急いでおりましたもので」
 母はどこか拗ねた口調になった。
「あなたは冷たくなったわね。子どもの頃は、母の誕生日には贈り物をくれたのを今でも憶えていてよ。あんなに優しい子だったのに、すっかり変わってしまったわ。特に結婚して独立してからは私を避けているようだけれど」
 ただし、チュソンが苦労して集めた蝉の抜け殻を見るなり、母は悲鳴を上げて失神してしまったが。あの出来事は今も苦い子ども時代の想い出として消えることはなかった。
 チュソンは屈託ない口調で返す。
「そんなことはありませんよ。母上の考え過ぎです」
 言い終えたその時、扉が開いた。央明が盆を捧げ持っている。央明は静々と歩いてくると母の手前で一礼した。
 チュソンの向かい、母からは右斜向かいに座った。
「母上さま、ようこそいらっしゃいませ」
 ヨンオクの年齢を感じさせない若やいだ面から笑みが消えた。まさか、ここに央明が出てくるとは考えていなかったのだろう。
 央明は気後れする様子もなく、慣れた手つきで青磁の急須を取り上げ、急須とお揃いの湯飲みに注いでいる。茶托に乗せたそれをまずは母の前に、次いでチュソンの前に置いた。
 流石は王室育ち、亡き保母尚宮に厳しくしつけられただけはある。優雅な所作は、母も文句の付けようがないものだ。
 母は何とも言いがたい表情で湯飲みを手にし、口に含んだ。チュソンも母に倣う。
 ひと口含むと、味わいのある茶の味が口中にひろがる。央明は非の打ち所のない妻だ、チュソンは誇らしい気持ちで母を見た。
 ヨンオクはコホンと小さく咳払いし、チュソンを見た。
「それで、首尾はどうだったの?」
 いきなり振られ、チュソンは眼をまたたかせた。
「首尾とはー何のことでしょう」
 母が焦れたように言った。
「知れたこと、観玉寺にお詣りして、ご利益はあったのかと聞いているのです」
 これにはチュソンも絶句した。観玉寺から戻ってまだ十数日だ。たとえチュソンと央明が男女の夫婦であったとしても、短期間で子が授かるはずもない。
 だが、別の意味では確かにご利益はあった。チュソンは体勢を立て直し、平静を装った。
「都を遠く離れて夫婦二人、水入らずで過ごせました。あんなにのんびりとできたのは初めてのことで、これもひとえに母上のお陰かと存じます」
 ヨンオクが吐息混じりに言った。
「まあ、それならば良かったわ。夫婦が琴瑟相和するのが子宝にはまずは基本でしょうから」
 その時、央明がチョゴリの袖から小さなチュモニを出した。薄紫のチュモニ(巾着)をそっと卓に乗せ、母に言う。
「母上さま、良かったら、お使い下さいませ」
 母は眉を寄せ、訝しむように巾着を見ていた。水仕事を一切しない手は今でも白くほっそりとしており、その手で巾着を取り上げる。
 中から出てきたのは、小瓶であった。表面に梅の花が簡素に描かれている。
 母は無言で央明を見た。これは何なのかと問うているようだ。
 央明は澄んだ声音で応えた。たまに気を抜いたときに出る低い地声とは別人級の作り声だ。
「化粧水にございます」
「化粧水?」
 母の美しい眉がますますひそめられた。
 央明は嬉しげに説明する。