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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 この時代、同性愛は衆道と呼ばれ、一般的どころか差別の対象でさえあった。父は両班家の貴公子として生まれ、教養も備えた人だ。まさか父が央明と自分の仲を容認してくれるとは考えていなかっただけに、チュソンは心からありがたく父の言葉を聞いた。
 ジョンハクは最後に言った。
「儂も何か手立てを考えてはみるが、翁主さまの無事を第一に考えれば、現状維持が望ましいだろう」
 チュソンは父に頭を下げ、室を辞した。
 息子が出ていった後、ジョンハクは物思わしげな溜息をついた。
 耳の奥でヒステリックな女の高笑いがこだまする。ジョンハクは癇に触る笑い声を振り払うかのように、軽く首を振った。
 忘れもしない、あれは今年の三月、中宮殿を訪ねた日の出来事だ。央明翁主と息子の婚姻を願い出た時、姉が高笑いをしていたのを思い出す。
 何故、王妃がしてやったりと笑うのか。あのときのジョンハクは理解に苦しんだ。強いていえば、名門羅の一族とはいえ分家にすぎないジョンハクの息子と王族ながら?日陰の王女?と呼ばれる央明は似合いだと嘲笑われているのかと考えた。
 けれども、王妃の高笑いの原因は、もっと根の深い場所にあったのだ。今更ながらに知り、ジョンハクはやりきれない気持ちだった。
 あの笑いは普段から何かと癪に障る異母弟を出し抜いてやった姉の会心の笑みだった。
 王妃の居室を出る間際にあの笑いを聞いた瞬間、嫌な予感がしたのをつくづく思い出す。
 あの日、ジョンハクは姉がああもすんなりと央明翁主とチュソンの婚姻を許可するとは想像していなかった。最悪、許しは出ないものだと覚悟していたのに、王妃は、あっさりと許したのだ。あれにも拍子抜けしたけれど、裏には大きな絡繰りがあった。
 そう、央明翁主が女ではなく男だという秘密だ。姉は翁主の秘密を知っている。だからこそ、甥と義理の娘の結婚を快諾したに相違ない。
 あの笑いには何か含むところがあるのかと考えかけ、幾ら何でもそれはないだろうと笑い飛ばした。王妃も四人の御子を持つ人の母である。倅のために懇願する弟のためにひと肌脱いでくれたのかと、むしろ感謝したものだったけれど。
 央明の秘密を知った時、チュソンやジョンハクが受ける打撃を想像しては楽しんでいたのだろう。いかにも、性格の歪んだあの姉らしい悪趣味な思考回路といえた。
 今もあの日の高笑いがひっきりなしに耳奥で続いている。
 チュソンの気持ちは判らないではない。愛する央明と別れなければならないとしても、央明を本来の王子として陽の当たる場所に出してやりたいと願っているのだ。
 思えば、チュソンの歳にはジョンハク自身、既に妻帯していた。ジョンハクだとて妻を守るためなら、何振り構わず立ち向かってゆくだろう。
 ジョンハクには、衆道は到底理解もできないし、受け入れがたいものだ。だが、息子に告げたように、人が誰かを想うという点においては、基本的には性別は関係ないのかもしれないと考えている。
 男と知ってなお、チュソンが央明を求めているなら、ジョンハクは息子の恋愛に口を挟むつもりはなかった。
 ジョンハクは重い息を吐き、疲れたように眼を瞑った。
 
 十二月に入った。その日は朝から空が泣き出しそうな陰鬱な空模様だった。
 チュソンはいつものように王宮に出仕し、昼過ぎには帰宅の途についた。毎度のように儀賓府(王族の娘婿が所属する府)の詰め所では古くなった資料の整理を済ませてしまえば、後は手持ち無沙汰なのは言うまでもない。
 同じような境遇の同僚と他愛ない話をして時間を潰し、時間が来たので退出した。
 今日、親しく話したのは先王の孫娘を迎えたという男だ。王女が臣下に降嫁して産んだ孫ではなく、父方も何代か前の王族のため、降嫁扱いで附馬となった。
 チュソンよりは数歳年長であり、去年、初子が生まれたという。話といえば専ら、生まれたばかりの愛娘が中心だった。
 チュソンのように恋愛結婚ではないが、彼もまた他の多くの附馬のように己れの運命を受け入れているように見えた。
ー俺は勉強が嫌いで、どうせ科挙を受けたって、掠りもしないような有様だったからな。そなたは神童と呼ばれたほどの天才だったんだろう? みすみす殿下の娘婿になったのも運が良いのかどうか、複雑な心境だろうな。
 彼は正三品なので、チュソンより位階は下である。しかし、チュソンは彼を年長者として立てたため、関係は良好だ。
 相手の言葉に、チュソンは特に何も言わず笑っているだけにとどめた。
 彼とは儀賓府の前で別れ、そのまま徒歩で帰途に就いたのだ。屋敷前の小道は相変わらず人通りはなかった。チュソンが歩いていると、後方から雅びな女輿が追いつき通り越してゆく。この界隈は高官の屋敷が建ち並ぶ一角だから、大方は近隣に棲まう奥方のものに相違ない。
 ところが、輿はチュソンの屋敷前で止まった。屈強な男たちが輿を降ろすと、輿の戸が開いて女人が降りてきた。チュソンは唖然として眼を見開いた。
 輿から降り立ったのは、紛れもない彼の母ヨンオクだったのだ。知らん顔もできず、チュソンは小走りに駆け寄った。
「母上(オモニ)、何かご用でも?」
 チュソンの挨拶が気に入らなかったのか、ヨンオクはあからさまに柳眉をひそめた。
「どうやら、あなたは母が来ては迷惑なようですね」
 内心、しまったと後悔する。彼は慌てて言い直した。
「ようこそおいで下さいました」
 実のところ、母を心底から歓迎できるかと言われれば、否としか言いようがない。やはり、五月の騒動がまだ尾を引いている。
 母は先月も屋敷を訪ねてきている。その時、子授けに御利益のある観玉寺詣でを勧められたのだ。結果として観玉寺詣では央明の秘密を知り、二人が名実共に夫婦として結ばれるきっかけとなった。
 その意味では、彼は母に感謝をしている。
 ただ、どうしてもあの騒動が心にわだかまっており、母がまた央明にきつく当たるのではないかと身構えてしまうのは致し方なかった。
 チュソンは母と並び、道から続く階段を上る。門をくぐって庭を横切ろうとすると、片隅で屯していた女中たちが蜘蛛の子を散らすように消えた。
 恐らくはまた、よもやま話に興じていたのだろう。二人、立ち話していた下男たちも背筋をしゃんと伸ばし、チュソンついでヨンオクに深々と頭を下げた後は這々の体でどこかへ行ってしまった。
 母は呆れ顔で息子を見た。
「あなたの屋敷の使用人たちは相変わらずのようね」
 つまりは、いまだ央明が女主人として使用人たちを上手く統率できていない。母はそう言いたいのだ。
 チュソンは母の小言は聞こえないふりで聞き流した。できればこのままお帰り願いたいところだけれど、そんなことを言おうものなら、母は泣き出すのは明白だ。
 ならば、形だけもてなして早々に帰って貰えば良い。チュソンは愛想笑いを顔に貼り付けた。
「どうぞ、お上がり下さい。今、お茶を用意させましょう」
 二人は玄関から中に入り、チュソンは執事ではなく、チョンドクを呼んで母を案内させた。執事は中年の気の良い男で、下男頭としても有能だと認めてはいる。しかし、母は使用人を見る眼は厳しい。
 ここは母の手強さをよく知るチョンドクが適役だと判断したのである。