裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
チュソンは扉を開け、身を滑りこませた。
父は紫色の座椅子(ポリヨ)に座り、書見の最中であった。チュソンは文机の前で深々と頭を垂れ、父と向かい合った。
ジョンハクが笑いを含んだ声で言う。
「珍しいな。そなたが訪ねてくるとは」
朗らかに続ける。
「ヨンオクが零しているぞ。息子は美しい嫁女の顔を日がな見ているだけで満足で、もう両親の顔なぞ忘れ果てたのであろうと」
謹厳な父には珍しく饒舌に戯れ言を言っている。しかし、チュソンは同じように冗談を言い合う余裕はなかった。
黙り込む息子をチラリと見、ジョンハクは真顔になった。
「まあ、たまには、ここ(実家)にも顔を見せなさい。母も寂しがっているのは事実だ」
チュソンはそれにも応えず、思い詰めた様子で膝をいざり進めた。
「父上、今日はご相談があって来ました」
「フム。そなたが相談とは珍しいな」
父は鼻下にたくわえた口髭に触れ、息子の真意を確かめるように眼をわずかに眇めた。
こんな表情をすると、当代一の策士とその権謀術数ぶりを謳われる祖父とそっくりである。
自分のような人生経験も浅い若造がまともに立ち向かって敵う相手ではない。チュソンの心ノ臓が俄に鼓動を速めた。
下手に策を弄するよりは、こちらの手を隠さず見せて真摯に相談する方が賢明だ。チュソンは判断した。
「実は翁主さまのことで、お願いがあります」
ジョンハクには意外な話題であったらしい。細い眼をまたたかせている。
「翁主さま? 我が家の嫁御のことか」
チュソンはわずかに身を乗り出した。
「私一人ではどうにも判断がつきかね、是非とも父上のお知恵を頂きたいのですが」
実はと切り出した話は、予想外に長くかかった。できるだけ要領よく話したつもりだけれど、央明の生い立ちはあまりにも複雑すぎた。彼の想い人がいかに過酷な人生を生きてきたかを改めて思い知らされた気もした。
およそ半刻後、すべてを話し終え、チュソンは父の表情を窺った。もし父が祖父に事の次第を伝えるつもりなら、このまま懐中の短剣を出すつもりでいた。
ジョンハクの顔色は、灯火の下でもはっきりと蒼褪めていた。無理もない。チュソンは央明の身に起こった出来事を包み隠さず話したのだ。その中には、王妃が生後まもない央明を殺害させようとしたこと、更には央明の生母淑媛を殺害したことも含まれていた。
父はどこか遠いまなざしで室の扉を見つめていたかと思うと、視線を動かしチュソンを見た。
「それで、そなたはどうするつもりだ?」
ハッとチュソンは父を見返した。祖父にうり二つの顔には、表情らしい表情はなかった。
「儂の許を訪ねてくるからには、そなたなりの腹蔵があってのことであろう。そなたは短慮ではない。あらゆる可能性を導き出し、どんな事態にも立ち回れることを確信して来たはずだ」
チュソンはうつむき、ガバと顔を上げた。
「残念ながら、妙案は何もありません。先刻、申し上げたのは嘘ではありません。私一人の思案には余るゆえ、父上のお力を借りに参りました」
ジョンハクはかすかに頷いた。
「それでは言い方を変えよう。そなたは、これからどうしたい?」
チュソンは端座した両膝に乗せた拳に力を込めた。
「私は翁主さまの御意に沿いたいと思います」
「翁主さまは何と仰せなのだ?」
チュソンは言葉を選びながら慎重に応えた。央明に王座を望む野心があると父に誤解されては堪らない。
「翁主さまご自身は何も仰せではありません。ただ、私が世子邸下に真実を告げるべきではとお勧めした際、それだけは絶対にしてはならないと言われました」
ジョンハクは頷いた。
「それは賢明なご判断だ。まだお若い世子邸下に真実を告げて、どうになるものではない。邸下を無闇に動揺させるだけだろうからな」
ジョンハクは腕組みをし唸った。
「であるからには、翁主さまご自身は玉座をお望みではないのだな」
話が危うい方向に向きかけ、チュソンは慌てた。
「誤解なさらないで下さい。翁主さまはこの件に関しては何もおっしゃってはおりません」
「そなた一人の独断か?」
「はい」
チュソンはきっぱりと肯定し、父を見つめた。
「ですが父上、玉座を望むことと、本来の男として生きることはまったく別のものではないでしょうか」
チュソンの口からは迸るように言葉が出た。
「考えてもみて下さい。父上が仮に翁主さまと同じ立場に置かれたとしたら、いかがされますか? 健やかな男子でありながら、きらびやかなチマチョゴリを着て女のように微笑む。いや、女そのものとして生きねばならない。そんな人生に耐えられますか? 私だったら、我慢できません。きっと早い段階で気が狂うか自ら生命を絶っていたでしょう。翁主さまはもう十数年もそうやって、ひたすら耐えてこられた。私は痛々しくて見ていられない。我慢強い方だから、不満はひと言も言わないが、あの方のお心は血の涙を流しています」
ジョンハクが懐から手巾を取り出し、差し出した。
「そなたの言い分は判ったから、涙を拭きなさい」
父の言葉で、チュソンは初めて自分が泣いていたのを知った。興奮した挙げ句、子どものように泣くとは恥ずかしい限りだ。
恥じ入るようにうつむけば、父の潜めた声が聞こえた。
「そなたの考えはある意味では間違ってはおらぬ。儂だとて翁主さまと同じ立場に置かれたら、到底平静でいられるとは思えない」
チュソンが期待をこめた眼で見つめるのに、父は視線を逸らした。
「だがな、そなたがなそうしていることは正直、ほぼ不可能に近い」
チュソンは猛然と父に食ってかかった。
「何故ですか? 翁主さまは世子になることも即位も望んではおられないのですよ?」
ジョンハクがたしなめる口調になった。
「落ち着け。翁主さまの生命取りになりかねない秘密をお喋り好きの使用人に聞かれたいのか?」
チュソンは罰が悪げに口を噤んだ。
ジョンハクは溜息交じりに言った。
「とりあえず、そなたの考えはすべて聞こう。翁主さまの身分復権と一口に言っても、一体どうするつもりだ? 生まれたその日から十八年間、王女として生きてこられた方だ。いきなり?実は男でした?では済まない話だぞ」
チュソンは唇を噛み、父を力を秘めた眼(まなこ)で見つめ返した。
「ですから!」
言いかけ、激した己れを恥じるかのように居住まいを正した。
「ですから、殿下に申し上げて、あの方を本来の王子として公表するべきでは」
ジョンハクが溜息をついた。
「殿下は愕かれるではあろうが、結局は認められるはずだ。むしろ、歓ばれるかもしれん」
十八年間、娘だと信じていた王女が実は王子であった。国王ならずとも、俄には信じがたい話である。最初は信じないかもしれないが、性別を偽るに至る経過を知れば、信じるに違いない。
ジョンハクが重い息を吐きつつ言った。
「さりながら、事は王室の一大事だ。殿下のみが得心されて済む話ではない」
チュソンが眉をかすかに寄せた。
「伯母上ですか?」
ジョンハクは幾度も頷いた。
「中殿さまにもむろん、話は通さねばならぬ」
チュソンは唾棄するような口調で言った。
「あの方は今更報告しなくとも、知り過ぎるほどご存じでしょうに」
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ