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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 チュソンは悩ましげに頷いた。
「今日は妻のことで父上に相談に伺ったので、できれば母上にはあまり知られたくないんだ」
 ヨニは仕方ないといった表情で頷いた。
「承知しました。でも、本当に今回だけになさって下さいね? 坊ちゃま、奥方さまはお寂しいんですよ。手塩にかけてお育てになった一人息子が遠くへ行っちまったように感じておられるんでしょう。あたしも母親ですから、奥方さまのお気持ちも判るんです。お願いですから、今度お戻りになったときは必ず奥方さまにお顔を見せて差し上げて下さいまし」
 チュソンは心優しい乳母を安心させるために頷いた。
「判った、ヨニの言う通り、今度は必ず母上にも会っていくよ」
 ヨニは自分の産んだチョンドクよりも、チュソンを可愛がり慈しんだ。それでも、チョンドクが先に引いた風邪がチュソンに移ったことがある。
 確か六歳の冬だったか。大切な跡取り息子に風邪を引かせたと、母はヨニの怠慢に激怒した。ヨニは腹立ちの収まらない母に鞭で打たれたのだ。
 寒風が吹きすさぶ庭に立ち、ヨニはチマの裾をからげ立っていた。母が美しい顔に憤怒の形相を浮かべ、細い鞭をふるっていた。
 ヨニの脹ら脛は傷つき、血を流しており、チュソンはとうとう見ていられず母の前に飛び出した。
ー母上、乳母は悪くありません。チョンドクが風邪を引いているから、治るまで一緒に遊んではいけないと乳母は私に言いました。でも、私が言いつけを破ってチョンドクと遊んだんです。
 チュソンは泣きながらヨニに抱きついた。無抵抗な乳母を庇うように小さな手をヨニの身体に回して抱きしめ、母を睨みつけた。
 思えば、半年前の騒動もあのときと酷似していた。チュソンが央明を庇ったことで、母は余計に逆上したのだ。
 幼い息子が乳母を庇い、あまつさえ刃向かったことは母の怒りを更に煽っただけだった。
ーお前は実の母に逆らうように私の息子をしつけたのか!
 怒り狂ってなおもヨニに鞭を振り下ろそうとしたところ、父ジョンハクがたまたま王宮から帰宅して騒ぎを聞き止めに入ったのだ。
 チュソンはヨニの少し小皺が目立つようになった顔をしみじみと見つめた。
「あまり無理はしていないだろうね? ヨニももう若くはないんだ。きつい仕事は若い者にやらせて偉そうに指図だけしていれば良いんだ」
 チョンドクとチュソンが同い年ではあるが、ヨニは母よりは十以上は年がいっている。ヨニはチョンドクが生まれるまで、流産を繰り返し、やっと息子に恵まれたのだ。
 ヨニの丸い顔に微笑が浮かんだ。
「何の、あたしゃア、まだまだこれからですよ。倅夫婦に孫はできたが、坊ちゃまのところはお子さまがまだですからねぇ。坊ちゃまの奥さまがお産みになる赤ちゃんをこの眼で拝ませて頂けるまでは、くたばりゃアしませんよ」
 チュソンは返答に窮した。
「その話だが、乳母、妻は王宮生まれ育ちで身体が弱い。あまり期待はしないでくれ」
 暗に子どもは望めないかもしれないと言ったのだ。ヨニは年と共にふくよかになってくる身体を揺すって笑った。
「坊ちゃん、子は授かりものって昔から言いますよ。今からそんな心配をするよりは、まだまだ新婚なんですから、お二人の生活を存分にお楽しみになったら良いんです。ご夫婦仲良くしていれば、その中、天地神明が玉のような嬰児(ややこ)を授けて下さいますって。坊ちゃんは神と謳われるほど賢いし、奥方さまは天女のような別嬪だ。おまけに王さまの娘と来てる! 私のお育てした坊ちゃまのお子が国王さまの孫だなんて、本当にヨニは信じられません。坊ちゃまのように賢く、奥方さまのようにお美しい和子さまがお生まれになるでしょうね。ヨニはもう今から楽しみでなりません」
 ヨニはもう子どもが生まれたかのように、赤ら顔を更に染めて嬉しげに話している。
 ヨニとチュソンの母はあらゆる意味で正反対だ。チュソンは子どもの頃、ヨニが本当の母であれば良かったと何度思ったかしれない。
ーヨニ、悪いが、そなたの期待には応えてやれそうにない。
 チュソンはヨニの肩を労るように軽く叩き、父の居室に向かった。
 父ジョンハクは母に比べれば、情理を解する人だ。常識家ともいえるだろう。
 が、穏やかで思慮深い父にでさえ、央明の秘密を明かすと決めるまでには相当の迷いがあった。当然だ。央明の秘密はこの国を揺るがしかねない。いわば、国家機密に等しい。しかも、秘密を知る者が増える毎に、央明の身に迫る危険も増える。
 父が公正な人であるとはいえ、所詮は羅氏の人間だ。羅氏は王室の外戚だし、祖父は国舅ー国王の岳父であり、次代の国王たる世子の外祖父であった。
 父もまた国王の義弟、世子の血の繋がった叔父の立場だ。そんな立場の人に央明の重大な秘密を明かして良いものか。央明は明らかに羅氏や羅氏を後ろ盾とする世子とは敵対する立場なのだ。央明自身に敵対する気がなくても、世子の座を脅かし得る央明の存在は羅氏にとっては敵と見なさざるを得ないものだ。 
 チュソンは扉の手前に佇み、小さく息を吐いた。この時点ではもう心は迷いなく定まっていた。
 今日の昼過ぎ、庭で垣間見た央明の舞姿を思い出すが良い。凜々しくも颯爽とした姿ながら、どこか、そこはかとなき色香も感じられる倒錯的な美しさの青年。かといって、央明が生来持つ凜とした気高さはけして失われてはおらず、むしろ男姿が媚びない清冽さを際立たせていた。
 チュソンがいつも眼にしている、いかにも清楚な良家の若夫人といった央明とは、まったくの別人だった。あれこそが央明の真の姿なのだ。央明は心の底から宿命を受け入れているわけではない。
 チュソンはあの流れるように優美かつ雄壮な舞姿から、はっきりと悟った。美しいチマチョゴリの下にひた隠してはいても、央明の心は叫んでいる。
ー何故、自分は思うように生きられないのか。神に与えられた性を堂々と生きてはいけないのか。
 あの瞬間、彼の心の迸るような叫びが聞こえるような気さえした。
 彼が本来の姿に戻り、これからの人生を生きられるように力を尽くそう。チュソンは覚悟を決めていた。彼を愛する者として、最愛の人のためにできる精一杯の真を尽くしたい。
 チュソンが選んだ、彼なりの愛の示し方であった。たといその先に身を切るほど辛い別離が待ち受けているのだとしても、央明が望むならば彼の身分復権を実現させてみよう。
 危険な賭けではあるが、そのためにはまず、父を味方に取り込む必要があった。
 万が一、父が央明の秘密を祖父に伝えるようなことになれば、央明の生命は保証できない。祖父は必ず世子の障壁となる央明を消すだろう。
 もし父がそんなことを言い出そうものなら、チュソンは父と刺し違えるつもりでここに来た。実の父親と刺し違えてでも、央明の秘密は守り抜く。妻を守れるのは最早、チュソンしかいないのだから。
 そのために、袖の奥深くには短刀を忍ばせている。心優しいヨニが知れば、泣き出すに違いなかった。
 だが、チュソンの央明への愛は、それほどまでに深く烈しいものだった。愛する人を守るためには自分の生命と引き替えにしても惜しくはない。
「父上(アボニム)」
 扉越しに声をかければ、すぐにいらえが返ってきた。
「入りなさい」