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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】

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 チュソンが贈った若竹色(エメラルドグリーン)の刺繍靴である。央明はあれからずっとこの靴を気に入って履いていた。靴があるということは、やはり屋敷内のどこかにいるのか?
 チュソンはますます訝しんだ。靴があるなら外に出ているはずもない。そのまま扉を閉めようとしたその時、かすかに物音が聞こえた。
 ハッとして庭を見やるも、音はふつりと止んでおり、もう何も聞こえない。やはり空耳かと思いかけ、また同じような音が風に乗って聞こえてきた。
 狼藉者が邸内に侵入したとも考えられ、捨て置くことはできなかった。チュソンは回廊沿いに足音を忍ばせて進んだ。
 すぐに曲がり角が見えた。曲がり角から先は板戸で仕切られている。押せばここも難なく開いて向こうに行けるような作りである。
 チュソンは板戸を心もち開け、向こうの様子を窺った。
 次の瞬間、チュソンは我が眼を疑った。翡翠色の道袍(ドツポ)を纏った美しい青年が両手に長剣を持ち、華麗に舞っていた。
 むろん、楽などはないはずなのに、チュソンには青年が舞うに合わせ、どこかから楽の奏でる調べが聞こえてくるようですらあった。両班の子弟であれば、剣舞のたしなみを持つ者はいるが、生憎、チュソンは武術関連は得手ではなかった。
 青年は右腕を掲げ、くるりと一回りする。更に左手が空(くう)を切ったかと思うと、フワリと青年の身体が宙に浮いた。彼は空中で軽やかに回転し、また鮮やかな着地を決める。
 二本の長剣はあたかも彼の身体の一部であるかのようだ。彼の動きに合わせ、手に持つ剣も自然に動いている。
 着地すると、今度は眼の前でふた振りの剣を交差させ二回転した後、高く跳躍した。彼の身体は空中でまた弧を描き、タンっと舞い降りる。彼が動く度に、後頭部で高く結い上げた漆黒の髪が揺れる。
 チュソンには、見事な剣舞を披露する青年の正体は知れていた。艶やかなチマチョゴリ姿しか見たことはないけれど、あの整いすぎるほど整った造作は、彼の妻に相違なかった。
 初めて見る央明の男装姿である。もとより、長い髪は男性のように髷に結っているのではなく、高い位置で一つに束ねているだけだ。
 それでも、いつもの女装とはまったく違った雰囲気を醸し出しているのは否定しようもない。どう見ても、やはり女人が男装しているようには見えなかった。
 改めて、央明は男子なのだなと思うのは今更すぎるだろう。かといって、ひとめ見て男だと判るというわけでもない。言葉にするのは難しいが、何とも中性的で妖しい魅力を醸し出している。一番的確なのは、男とも女とも判別がつかない摩訶不思議な美しさという表現かもしれない。
 その時、チュソンは央明が何故、緑色を好んで纏いたがるのかを悟った。
 緑の靴を贈った日、彼は妻に問うたのだ。何故、緑色が好きなのかと。
 あの時、妻は何と応えたか。
ー自分らしくいられるから、でしょうか。
 確かに妻はそう応えた。
 緑というのは、色自体は、はっきりとしているようで実は曖昧な部分もある。蒼を好む女人はいるかもしれないが、蒼は女人の衣服よりは男のそれにより多く使われる色だ。
 だが、緑はどうだろう。女人の華やかな装いには、緑をあしらったものも多い。緑は元々、男性的な印象を受けるけれど、女性が纏う色として違和感はないのだ。
 恐らく、その辺り、央明が好んで身につけている理由ではないか。妻は男が好む色で女が身につけても不自然ではない色を身につけたかったのだ。
 自分らしくいられるような気がすると、妻は言った。央明にとって緑色とは、自己を主張する精一杯であるのかもしれない。
 チュソンが想いに耽る間も、時折、長剣が空を切る音がしじまに響く。彼は来たときと同じように気配を殺し、その場を後にした。
 到底、声をかけられるものではなかった。
 男として生きる宿命をどのように受け止めているのか? これまでチュソンは央明の気持ちを突き詰めてみたことはなかった。
 弟から世子の座を奪う気など毛頭ない、と、央明は言い切った。彼の性格を考えれば、嘘ではなく真実の想いだろう。
 けれども、世子になるつもりがないのと、本来の性に戻りたいと願うのとはまったく次元が違う。
 チュソンは央明が女人として生きる運命を甘んじて受け入れているのだと思い込んでいた。いや、確かに、それは間違いがないのだろうが、甘んじて受け入れるのと心から納得して受け入れるのとはまた全然違う。
 もし央明が心底では本来の男という性に戻りたいと願っているとしたらー。
 央明を愛するチュソンとしては、叶うなら央明の気持ちに添うようにしてやりたかった。
 チュソンが知らないだけで、今までも央明は時々、男の姿に戻っていたに違いない。剣舞は実践ではないが、あの剣捌きを見ただけで、武術に憶えのないチュソンだとて央明が相当の手練れであるのは察せられた。実際に剣を振るったとしても、なかなかの腕であるのは疑うべくもない。
 央明が男として生きるのは、自分たちの別れを意味するのは承知している。それでもなお、チュソンは央明の心根を思うと不憫でならなかった。健康な男子、しかも現国王の第一王子でありながら、王女として生きるより身を守るすべはなかった。
 いつ剣術を身につけたかは判らないけれど、秘密がバレる危険を考えれば、剣術指南は受けられなかったはずだ。恐らくはすべて独学で身につけたものだろう。
 そうまでして、男に戻りたいと願う央明を到底このままにしておけるものではなかった。
 
 夕刻、チュソンは馬に跨がり、父ジョンハクの屋敷を訪ねた。お付きは側仕えのチョンドクである。チュソンは忠実な乳兄弟に言った。
ー今日はもう屋敷まで付いて戻らずとも良い。このまま妻女や子どもと家に帰れ。
 チョンドクの妻は今もチュソンの実家で働いている。まだ乳飲み子を連れて奉公しているのだ。
 チョンドクは少し躊躇うそぶりを見せたものの、チュソンが遠慮するなと言うと、嬉しげに顔をほころばせて頷いた。
 チョンドクとは玄関で別れ、チュソンは見慣れた実家へと久しぶりに足を踏み入れた。
 母には申し訳ないが、込み入った話をする今日だけは母に会いたくはなかった。それでなくとも、母は央明を心から嫁と認めてはいない。
 幸いなことに、乳母ヨニは実母ヨンオクよりチュソンの心根を理解してくれている。チュソンは嬉しげに出迎えたヨニに親しげな笑みを見せ、できればここに来たことは母には知られたくないこと、父に会いたいことを告げた。
 ヨニはチュソンが子どもの頃から母ヨンオクとの間に溝があるのを憂えていた。今もチュソンの話を聞いたヨニは丸い顔に気遣わしげな色を浮かべた。
「折角おいでになられたんですから、奥方さま(マーニム)にもお逢いにならないと」
 母が屋敷に乗り込んで一悶着があって以来、チュソンは実家には寄りつきもしなくなった。滅多に里帰りしないチュソンを母は薄情な息子だと事ある毎に嘆いている。
 チュソンはヨニに囁いた。
「お前だから話すけど、母上はいまだに妻を嫁だと認めてくれていなくてね」
 かいつまんで半年前の騒動を打ち明ければ、人の好い優しい乳母は顔色を変えた。
「そのようなことがあったとは」
 信じられない様子で言う。