裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
?中道政要?を両手で抱きしめるように抱え、央明は白い頬を上気させていた。だが、すぐにしゅんとしてチュソンを見上げた。
ーどうした?
訊ねたチュソンに、央明はか細い声で言った。
ー母上(オモニ)さまが読んではならないと仰せでしたのに、良いのでしょうか。
うちしおれた花のような姿に、チュソンは胸が一杯になった。彼は央明を抱き寄せた。
ー母上のことは本当に済まない。そなたにはさんざん辛い想いをさせた。
半年前、母がチュソンの留守中に突如として乗り込んできた日の惨状を改めて思い出し、眉をひそめた。
と、央明は思いもかけぬことを言ったのだ。
ー旦那さま、私ならもう平気です。ですから、母上さまと仲違いなどけしてなさらないで下さいね?
チュソンは妻のひと言に胸をつかれた。母は央明を引き据え、髪を引っ張りさえしたのだ。嫁とはいえ王女に対しては許されない無礼であった。それでも央明は母を悪く言うでもなく、かえってチュソンとの母子仲を案じている。
次いで、央明は言った。
ー私には母の記憶が一切ありません。こんな満足もして頂けない嫁ではありますが、縁あって母上さまとお呼びするからには、実の母のようにお仕えしたいのです。
その言葉からは、幼くして生母を失った孤独も感じられた。央明は母を知らずに育った。彼を育てたのは央明の秘密を知る保母尚宮だ。乳母も愛情を持って央明を育てたのは知れるが、何と言っても実母には敵うまい。
どれだけ欲したとしても、母の愛が得られない。思えば思うだけ、央明は母の情を欲したのではないか。だからこそ、?疫病神、日陰の王女?と罵られてもなお、央明はチュソンの母に歩み寄ろうとしているのだろう。
チュソンはもう何も言えず、央明の髪を労りを込めて撫でた。
ーそなたの優しい心はきっと母上に通じるよ。
しかしながら、言葉とは裏腹に、チュソンの胸には不安しかなかった。母は名門羅氏に匹敵する開国功臣を祖とする名家の息女だ。生まれたときから大切に育てられた母は、名ばかりの王女として?日陰の姫?と呼ばれた央明よりはよほど乳母日傘で育った筋金入りの令嬢である。
気位の高さでは負ける者はなく、感情の起伏は烈しい。世の中はすべて自分の思い通りになるものと信じて疑わないところは、やはり羅氏の一の姫として育った王妃と共通している。
そんな母が果たして央明の真心を理解するだろうか。話の判る父であればまだしも、理性より感情で動く母には難しいのではないかと不安しかなかった。
だが、ここで母と仲良くしたいと願う央明の心を挫くのは忍びなかった。チュソンは言葉少なに頷き、央明の艶やかな髪を撫で、話はそれで終わった。
以来、央明は刺繍もそっちのけで、再び読書に耽っている。勉強熱心な彼は読書中に判らない部分があると紙片に書き付けた。チュソンが室を訪ねると、その紙片を見せて真剣な顔で質問をしてくる。
難関とされる科挙を首席合格したチュソンである、央明の疑問に応えるのは造作もなかった。央明の疑問はチュソンによって、いとも容易く解決され、その度に央明は憧れと感嘆のまなざしでチュソンを見る。
科挙に首席合格した輝かしい経歴は、チュソン当人はさしたる意味がないと感じているが、愛する妻から熱い視線を注がれるならば、やはり合格した意味はあるのだと思う。他人が聞けば、どれだけ妻に現を抜かした阿呆かと物笑いの的になるのは必至だけれど、チュソン自身は大真面目だ。
時には二人で?ここはこうではないか?、?いや、こういう解釈の方がより正しくはないか?などと大いに盛り上がった。そんな夜は女中が夕食を運んできてもまだ、二人は食べるのも忘れて熱心に議論を戦わせた。
そんな時、彼は央明のあの科白を思い出さずにはいられなかった。
ー男だとか女だとか関係なく、友達になれたら良いと。あの言葉は偽りではなく、まさしく本心です。あなたのような聡明で心の広い方と心ゆくまでこの国の在り方、未来について語り合えれば、どんなに愉しいだろうと夢見ました。
央明はチュソンにとっては、妻であり恋人であり、また得難い友でもあった。央明という存在は単なる想い人というだけでなく、いつしかチュソンのすべてになっていた。
チュソンにとっては、まさに至福の日々が続いていた。
今日も妻は、?中道政要?を読み耽っているのだろう。チュソンは高揚した気分で廊下を妻の室へと急いだ。
室の手前まで来ると、声をかける。
「夫人(プーイン)、私だ」
いつもなら、すぐに控えの間に待機するミリョンが真っ先に気づいて扉を開ける。だが、その日は扉が開かなかった。ミリョンは王宮から付いてきた央明付きの女官だ。いつも主人を守るかのように控えの間と居間の境目に陣取っている。
ミリョンもまた央明の数少ない秘密を知る一人だ。思えば、ミリョンがいつも居室の前から動こうとしないのも、主君の秘密を死守する気構えからなのだろう。いざとなれば、自分の身を楯にしてでも、央明の秘密は守り抜くー近づく何者をも央明に近づけまいとでもいうかの態度には、ミリョンの固い決意が現れているようにも見えた。
後宮で央明が心を許せるのは、亡くなった保母尚宮とミリョンのみであったという。本当に彼の妻が生きてきた十八年間は、チュソンの想像もつかないような壮絶なものだった。
返事がないので、チュソンは扉をそっと開けた。案の定、いつもそこにいるはずのミリョンは姿が見えなかった。用があって外しているのだろう。ミリョン一人で央明の身辺の世話はすべて担当しているのだから、彼女にかかる負担も軽くはない。
もっとも、央明自身が語るように、彼の妻は王女ながら自分のことは一通りはすべて自分でやる習慣がついている。見たところ、着替えなども特に手伝いが必要なければ、央明は一人でやっているようだ。見かけは女より女らしくても、中身は健康な男子である。やはり、央明はミリョンにも肌を見せたくないのかもしれない。
夫婦の間柄なので、遠慮なしに居室の扉も開いた。だが、室はもぬけの殻だった。
チュソンは焦った。ここのところ、自分たちの関係はすごぶる良好で、央明が逃げ出す原因があるとは思えない。それとも、央明が打ち解けてくれていると思ったのは、自分一人の勝手な思い込みにすぎないのか?
既に身体を重ね合う関係になってもなお、チュソンはいまだに最後の部分では自信がない。妻の姿が少し見えないだけで、親にはぐれた子どものように狼狽えるとは我ながら情けない話だ。
チュソンは自らを落ち着かせようと、深呼吸した。それから室を見回す。想像は半ば当たっていたようで、文机には?中道政要?が開かれた形で伏せられていた。
ならば、妻はつい先刻までは書見していたに相違ない。
ー一体、どこに行ったんだ?
室を見回していた彼は、庭へと続く方の扉が細く開いたままなのに気づいた。
不審に思い扉を押してみる。室の周囲を回廊が取り巻き、そこから庭へと降りられるようになっている。回廊の手前には女物の靴がきちんと揃えられていた。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ