裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
央明が周囲に築いていた高い壁を、チュソンはついに崩すのに成功した。
むろん、央明が自分と同じ男であると知った衝撃は大きかった。知った直後は自棄になりかけた。だが、少し落ち着いて自分を取り戻してみれば、チュソンの央明に対する気持ちは何ら変わってはいなかった。
央明の性別は、チュソンの恋情にいささかも水を差すものではなかった。むしろ、ついに想い人と結ばれたことで、チュソンの央明への愛はより深まったといえよう。何よりチュソン自身が自分の変わらない想いに愕いているのだ。
しかも、以前と違い、今や自分たちは仮面夫婦ではない。正真正銘の身も心もしっかりと結ばれた夫婦である。男の身体は女とは根本的に違う。だから、閨を共にしても毎夜、央明を抱くわけではなかった。もちろん、チュソンとしては夜ごとでも妻を抱きたい。が、男の身体でチュソンを受け入れる央明の負担を思いやり、交わりは数日に一度と自重していた。
若い盛りのチュソンは、数日に一度の交わりでは物足りないのは事実だ。そのため、たまに央明を抱いた夜はつい抑制がきかず、妻を幾度も求めてしまう。央明の身体を傷つけないよう、無理をさせないようにと心を配っているつもりでも、若さゆえの情熱はしばしば烈しく燃え上がり、央明ばかりか彼自身さえ焼き尽くすのだった。
央明は愚かではない。チュソンに我慢を強いているのを嫌というほど知っている。身体を重ねない夜、チュソンは央明を腕にすっぽりと抱き、二人はしっかりと抱き合って眠る。
そんな夜、たまに央明はチュソンの腕の中で彼を見上げて囁いた。
ー私なら構いませんから、旦那さまのお好きなようになさって下さい。
恥ずかしがり屋の妻は、自分から?抱いて?などとは言えないのだ。たどたどしい言葉から、央明が何を言いたいのかは十分すぎるほど伝わってきた。
チュソンは優しく笑み、央明の髪を撫でるのだ。
ー私は堪え性のない獣ではないよ。こうやって、そなたを腕に抱けるだけで十分だ。
そして、それは偽りのない本心であった。愛しい人さえ傍にいてくれれば、出世も何もかも必要ない。央明を女人だと信じていた頃と気持ちはまったく同じだ。
ー私、幸せです。
そんな時、央明は甘えるようにチュソンの胸板に頬をすり止せた。秘密が露見するまでは肩肘を張っていたのか、央明の態度はどこか硬かった。打ち解けて話しているときでさえ、隙の無さがあった。
けれども、隠しておく秘密が無くなった今、央明はチュソンに対して心を開いてくれた。まだ央明から?愛している?と直接言われたことはないけれど、央明の言動の端々からはチュソンへの深い信頼が感じられた。
央明は情のない相手に身を任せるようなことはしない。ましてや、彼は男だ。同性同士で睦み合う行為は、今の社会ではけして大っぴらにできるものではない。男同士で体を重ねるには、相手への強い気持ちと覚悟がなければならないのに、央明が好きでもない男に易々と抱かれるとは信じがたい。
央明が自分と同じほどではないにせよ、好きでいてくれるとの自覚はあった。
更に以前から考えていたように、恋人同士であろうと、大切なのは信頼関係だ。今、央明がチュソンに全幅の信頼を寄せてくれているなら、二人の未来は明るい見通しだ。
むろん、跡継ぎのことなど、考えなければならない課題は幾つもある。しかし、男女であっても、子を授かれぬ夫婦は少なくはない。残念なことに、愛情の重さと子宝は正比例はしていない。どれだけ愛し合っていたとしても、子どもができない夫婦もいるのだ。
央明と自分の場合も似たようなものだと受け止めれば良いだけの話ではないか。チュソンは極めて楽観的に考えている。元々出世欲のない彼は、何が何でも我が子に家門を託したいという執着はなかった。一族の中で見込みのある子どもを養子として引き取るという手もあるし、自分の代で家門が終わるのも致し方なしと考えている。
名門羅氏とはいえども、父ジョンハクは本家から分家した立場である。父には申し訳ないが、分家の二代目当主になる自分で家門が途絶えたとしても、そこまで哀しむ必要はないようにも思える。
ただ、頭の痛い問題が一つある。母の存在だ。母ヨンオクがチュソンの腹中を知れば、仰天するどころか、泣き喚いた挙げ句、失神するだろう。チュソンが子どもの時分から、母は息子の立身と家門の興隆をひすら願ってきた。王女を娶ったことで息子の出世は閉ざされたからには、せめて孫にはと一縷の期待を掛けているはずだ。
結婚して何年経っても子ができなければ、母は必ず側室を持つようにと言うはずだ。チュソンはこれから先も側室を置くつもりはないから、またしても母と真っ向から対立しなければならない。考えただけでも気が滅入りそうだ。
秘密が無くなったというのは、かくも心が解放されるのか。山寺から帰ってからの央明を見ていると、そんな風に感じられる。逆にいえば、これまで央明がいかほど重い秘密を守り通すのに苦心していたかを思い知らされた。性別を偽るなど、チュソンにはおよそ考えられないことであり、年少期ならともかく思春期を迎えれば、どれだけ困難かくらいは想像がつく。年頃を迎えれば、男女の間には明らかな体型差が出てくるものだ。
可哀想に、央明はたった一人で秘密を守り続けてきた。眠るときでさえ、心からの安息は得られなかっただろう。いつ男と露見するか? 疑心暗鬼でいたろうし、まだチュソンが秘密を知る前、央明が彼に対して警戒心を解かなかったのも納得はできた。
秘密の露見は、そのまま身の破滅を意味する。央明にしてみれば、生きた心地もしなかったろう。
せめて央明がこの屋敷にいるときだけでも、一時、秘密を忘れられるように、本来の彼でいられるならと願わずにはいられなかった。
自室に戻ったチュソンは側仕えのチョンドクの介添えで着替えを済ませ、真っすぐ妻の室に向かう。これはいつものことである。
常であれば、妻は居室で机に向かっていることが多い。?中道政要?の第二章を懸命に読んでいるところだ。央明が大切にしていた?中道政要?は乗り込んできた母に破かれてしまったが、あの後、チュソンは下町の書店で新しいものを買い入れてきた。
あの日を思い出し、チュソンはかすかに笑みを浮かべる。そのときの央明は刺繍をしている最中で、彼はまさに妻に不意打ちを与えたのだ。
熱心に針を動かしている妻の前に、彼はサッと紫の包みを差し出した。央明は茫然と彼を見上げ、次いで眼前の小さな包みを凝視(みつ)めた。
ーこれは何ですか?
可愛らしい面に書いてあるのは判ったが、彼は悪戯っぽく笑っただけだった。
ー開けてごらん。
ひと言だけ言えば、央明は首を傾げながら包みを受け取った。やがて風呂敷を解いた央明から歓声が上がった。
ー旦那さま!
普段は慎ましい央明が刺繍を放り出してチュソンの首に両手を回し抱きついてきたのには正直、愕いた。よほど嬉しかったのだろう。あんなに歓ぶなら、買ってきた甲斐があったというものだ。
ついでに愛妻から抱きついて貰えたのは、更に嬉しいオマケともいえた。何なら、毎日、書物を買ってきても良いと思ったくらいだ。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ