裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】
王妃が優しい女性であったという話は、俄には信じがたい。何しろチュソンが生まれたのは央明と同年であり、王妃が大望の第一王子を死産した年だ。王妃が我が子を世子にという妄念に取り付かれたのは遅くとも既にその頃からで、チュソンが知る限り、伯母は隙あらば襲いかかってこようとする雌虎のような印象があった。
王妃が完全に権力の虜となったのは、何と言っても世子が生まれたのがきっかけだろう。
第一王子を死産した三年後、奇跡的に身籠もった末子である。齢四十にして得た末息子を王妃は溺愛している。
そこで、チュソンは気懸かりを口にした。
「世子(セジヤ)邸下(チョハ)は、そなたの秘密をご存じなのか?」
央明の表情には特に変化はなかった。彼は前方を見つめたまま、淡々と返す。
「世子邸下は何もご存じありません」
チュソンはふと考えた。万が一、あくまでも可能性の話ではあるが、央明が本来の性に戻り、身分を復権したら、どうなるだろう?
央明はれきとした男子であり、健康そのものだ。聡明でもあり、心底から朝鮮を憂え民を中心とする国家を理想としている。
しかも、第一王子だ。央明が王子に戻れば、王位継承権のゆくえは判らなくなるのは疑いようもない。脇腹とはいえ、やはり長子の立場はいまだに重きを置かれる。央明の存在が今後の王位継承を大きく揺るがすに相違ない。
そうなれば、一番心穏やかならないのは王妃だ。執念ともいえるべき熱心さで末子を身籠もり、生まれた王子を世子の座に据えたのだ。
チュソンは叶うことなら、央明を陽の当たる場所に戻してやりたかった。むろん、央明が王子に戻れば、夫婦として共に歩く未来はない。けれども、第一王子でありながら、性別を偽ってまで日陰の身に甘んじている彼がいたわしくてならない。
央明の身分復権に比べれば、自分の恋情など、ささやかな私情だ。愛する人の幸せこそがチュソンの願うものだ。
しかし幾度も考えたように、央明の身分復権には相当な危険が伴う。まだ生まれたばかりの央明を王妃は殺害しようとしたのだ。立派な青年となった彼が表舞台に出れば、今度こそ間違いなく息の根を止めようとするだろう。
それを考えれば、やはり、央明はこのまま女人として生きるのが良いのかとも思う。チュソンは何の気なしに言った。
「世子邸下がご存じないとは、そのようなことが許されるのかな。そなたは邸下の兄君だ、本来なら、兄であるそなたが王位を継ぐ立場だった。ご自分の今の地位は兄君の大きな犠牲の上に成り立っているものだと邸下もそろそろ知っても良い頃合いだと思うが」
「止めて下さい!」
悲鳴のような声に、チュソンは唖然として央明を見た。普段あまり感情を露わにしない彼にしては、極めて珍しいことである。
央明は自らを落ち着かせるかのように、深い息を吸い込んだ。
「邸下は正義感の強い方です。もし邸下がこのことをお知りになれば、自ら世子の位を降りるなどと言い出しかねません」
チュソンは小さく肩をすくめた。
「それは当然だろう。むしろ、私自身はそうなるのを望んでいる。そなたは才気煥発だし、何より民が国の根本だと考えている。王としての噐は十分すぎるほどあると考えているよ」
正直、王妃に甘やかされて育った世子より、よほど央明の方が王座にふさわしい。確かに世子は愚鈍ではない。が、生まれたときから周囲に蝶よ花よとかしずかれるのが当たり前の環境で、物事の本質は見えていないところがある。
利口な子どもでも、育て方を間違えば、まともに育つものも育たない。チュソンが知る世子は、いかにも母親に甘やかされ放題で育った、我が儘な少年にすぎなかった。
央明はうつむいた。
「私は弟の地位を奪いたいと考えたことなどありません。邸下は今はまだ世間知らずではありますが、君主としての資質はお持ちです。ふさわしい者が教え導けば、聖君になれる可能性はあります」
チュソンはやや剣呑な声で言った。
「そのような者、今の朝廷にはいない」
チュソン自身が羅の一族ではあるけれど、現在の朝廷は議政府の筆頭領議政を初め、要職の殆どを羅氏が独占していると言って良い。領議政は世子の外祖父であり、王妃もまた領議政の娘だ。
羅の者たちは我が世の春を謳歌しているあまり、専横が目立った。羅一族への不満分子は見えない場所で少しずつ勢いを増している。祖父も王妃もまだ、そのことに気づいてもいない。
央明が吐息混じりに言った。
「旦那さまが附馬とならなければ、あなたこそが邸下の指南役にふさわしい方であったのですけど」
チュソンは笑った。
「あなたは相変わらず私を買い被ってくれているようだ。まあ、私としては嬉しいけど」
その話はそこで打ち切った。わずかな会話だけで、央明が世子を弟として慈しんでいるのは判ったからだ。
央明は弟を世子の地位から引きずり降ろすことをけして望んではいないのだ。
いかにも優しい彼らしいと、チュソンは改めて思った。世子は王妃の産んだ御子だ。そして央明は王妃に生母淑媛を殺されたばかりか、彼自身も殺されかけた。
それでも、央明は腹違いの弟を羨むでもなく恨むでもない。むしろ彼が世子に向けるまなざしは温かい兄としてのものだった。
けれどー。世子は真実を知るべきだ。今の自分の栄華はすべて央明が払った多大な犠牲の上に成り立つものだと、そろそろ知っても良いはずだ。
チュソンは、どうしてもその想いが拭えない。だが、央明を哀しませるのはチュソンの本意ではない。チュソンは重くなりかけた雰囲気を変えるように明るい声を出した。
「そろそろ行こう。また一昨日のように天気が変わったら大変だ」
そうそう都合良く炭焼き小屋が見つかるはずがないのだ。チュソンに促され、央明も素直に頷いた。
そこからはチュソンが先に立ち、央明が後に続いた。
チュソンが危惧した通り、寺では大騒ぎになっていた。無事に帰着した二人に老住職や寺僧たちはあからさまに安堵の表情を浮かべた。無理も無い。央明は降嫁したとはいえ、現国王の娘だ。仮に観玉寺に滞在中、王女の身に何かあれば、責任の所在を問われかねない。
チュソンは恐縮し、住職に心配をかけたこと、寺を騒動に巻き込んでしまったことを詫びた。下山した日はもう一日だけ寺の宿泊所に泊まり、翌朝、彼は央明を伴い都へ帰還したのだった。
その日は定められた出仕日であった。観玉寺から戻って既に五日が過ぎていた。チュソンは定刻に参内し、いつものように定められた部署で資料の整理をして過ごした。整理といえども、何の意味もない雑務だ。身も蓋もない言い様ではあるが、やってもやらなくても良い作業だ。
午前中はそれで終わり、昼過ぎに宮殿を退出して自邸に戻った。
我ながら恥ずかしいことだけれど、妻の顔を少し見ていないだけで、心許ない気分だ。寺詣でから戻って以来、二人は再び臥床(ふしど)を共にするようになっている。むろん、朝夕の食事も向かい合って取るのが日課だ。
母から子授け祈願を勧められたときには、内心また余計なお節介をと疎ましく思ったものだが、まさに観玉寺に参詣したからこそ、央明との距離は今までになく近づいたのだ。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【後編】 作家名:東 めぐみ