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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 チュソンは彼女の眼を見つめながら、深く頷いた。この娘(こ)のまなざしは何て澄んでいるだろう。幾つものぬばたまの夜を集めたような双眸はどこまでも深く、見つめていれば魂ごと吸い込まれ、絡め取られそうだ。
 いや、チュソンはもうこの時点で、この美しい娘の妖しいまでの美しさに魅せられてしまったのかもしれない。
 彼女は思いもかけないことを言われたような顔で言った。
「勇敢なはずがない」
 どこか投げやりな言い方は、優しい彼女には似つかわしくない。チュソンは呆気に取られ、彼女を見つめた。
 視線を感じたのか、彼女が小さく肩をすくめた。その仕草も良家の令嬢にはいささか不似合いな仕草である。見かけはどこまでも深窓の令嬢らしいのに、中身はまるで、やんちゃな男の子みたいだ。見た目と違い過ぎる。
 チュソンはどこかムキになったように言った。
「勇敢だと言うのは、良い意味で言ったんだ。恥ずかしいけれど、僕はセナを助けにいかなきゃと思うだけで、少しも動けなかった。八百屋の親父さんに逆に殴られることを想像しただけで、身体がすくんでしまって身動きもできなかったんだよ」
 少女がポツリと言った。
「判るよ。あのおじさん、体格良いものね」
 そこで初めて二人は顔を見合わせて笑った。ふと彼女の美しい面が翳った。まるで輝く満月が心ない月に隠れてしまったかのようで、チュソンまで切なくなる。
 その瞬間、彼の奥底から迸るような想いが溢れた。
ー彼女の笑顔を守りたい。
 大人たちが聞けば、まだ十にもならない子どもがませたことを言うと一笑に付されるか呆れられるのは判っていた。
 でも、チュソンはその時、真剣そのものだった。
 彼女が呟いた。囁くような声だった。
「私は偽善者なの」
「偽善者?」
 ますますもって彼女には不似合いな言葉に、チュソンは眉をひそめる。
 彼女はチュソンから視線を逸らした。たったそれだけの彼女の仕草に、チュソンは傷ついた気持ちになる。
 どうやら自分はこの名前も知らぬ美少女に、相当心を奪われてしまったようである。
 何故、彼女が自分を偽善者だと呼ぶのか。チュソンは訊かずにはいられなかった。 
「何故、偽善者なの?」
 彼女の花のかんばせに落ちた影が更に濃くなった。
「嘘つきだから」
「嘘つき?」
 チュソンは瞠目し、言葉すらない。まだ自分と同じ歳の彼女がつく嘘といえば、子どもらしい他愛もないものだろう。現に、チュソンが考えつく悪戯といえば、こうやって時折、学問の師匠が来る前に屋敷を抜け出す程度だ。
 少女が抑揚のない口調で言った。
「あなたには判らない」
 ?判らない?というのが彼女のつく嘘そのものに対してなのか、それとも、所詮彼女自身を理解できないという意味なのか。そのときのチュソンには判別できかねた。
 けれども、どうやら後者ではないかという気がしてならなかった。その時、また強い衝動が起こった。
ー知らないというなら、僕はあなたのことが全部知りたい。
 チュソンの想いなど知らぬげに、彼女が言う。
「幾ら善人ぶってみても、私は世の中の人すべてを騙して生きているんだもの。その罪は一生続くんだよ」
 彼女の科白はまるで解読不能の暗号のようだ。大人が読みこなすのが難しい漢籍ですら、チュソンは瞬時に理解する。それだけの頭脳を持ちながら、この美しい少女が発する言葉の断片はチュソンには難しすぎる。
 我ながら妙なことだと思った。
 まずい、また言葉が出てこない。彼女を笑顔にしたい一心で、チュソンは言葉を紡ぐ。
「君はー」
 またここで引っかかり、身体がカッと熱くなる。
 少女の黒い瞳がこちらを見つめている。ああ、やはり、引き込まれそうな魅惑的な瞳だ。
 チュソンは頬の熱を持てあましつつ、ひと息に言った。
「藤の花が好きなの?」
「えっ」
 流石に彼女も当惑したようで、綺麗な眼をまたたかせている。チュソンはますます顔に熱が集まるのを自覚した。まったく、女の子に対してかける言葉一つないというのも、情けない限りである。
 これからは勉学だけでなく、女人と気の利いた会話もできる男にならなければと、チュソンは母が聞けば卒倒するようなことを大真面目に考えた。
「どうして判った?」
 彼女が不思議そうに訊くので、チュソンはふんわりと広がるチマを指した。確かに彼女の纏う紅色の上衣にも緑のチマにも、白い藤の花が精緻に刺繍されている。
 チマの裾には白藤だけではなく、花に戯れかけるかのように蝶が飛んでいる。豪奢な逸品に、改めて彼女の家が相応の上流両班家なのだろうと想いを馳せる。
 とはいえ、チュソンの父もまた兵曹参判という朝廷では要職にある。父はまだ若く、更には父の一番上の姉は王妃という高い地位にある女性であり、羅氏は何を隠そう、王室の外戚だ。父がこれからまだまだ出世するであろうことは、まだ子どもにすぎないチュソンですら知っていた。
 もっとも、父ジョンハクと王妃は姉弟とはいえ、異腹である。王妃は祖父の先妻の娘であり、父は後妻を母として生まれた。長子である王妃と末子の父の年の差は十三で、母子とまではゆかないが、それに近いほど違う。
 しかも、父が生まれたのは王妃が十一歳で現国王に入内した後のことだ。従って、姉弟とはいえ、王妃と父の間には情の通い合いらしいものもなく、父は常に年の離れた、やんごとなき姉に遠慮しているように見えた。
 加えて、王妃と父の父親、つまりチュソンの祖父は領議政というこの国では位人臣を極めた人だ。また、王妃が生み奉った第二王子は生後一ヶ月で世子に立てられている。
 この国の世継ぎの君は、チュソンとは従兄弟同士という極めて近しい間柄である。いわば、チュソン自身、王室の外戚に生まれた名家の御曹司といえる。
 王妃と同母弟の次男が本家を継ぐため、父はあくまでも分家筋の当主ではあるけれど、国王の義弟、世子の叔父という立場だけで、父は十分に重んぜられる立場であった。
 その父の一人息子がチュソンだ。自分で言うのは嫌みかもしれないが、彼は四歳のときにはもう?小学?を終え、八歳の今では大人でも読めないような難しげな書物を楽々と諳んずる。一度眼にしたものは即座に記憶する。
ー羅家の倅は神童。
 というのは、かなり広く知れ渡っている事実だ。
 両親は一人しかいないこの息子が希有な才能を持って生まれたのを誇りにし、まだ幼い息子の教育にかける金には糸目をつけなかった。もっとも、どれだけ優れた師匠をつけても、弟子のチュソンの方がいつだって師匠より頭の回転が速いのだから、意味があるのかどうか知れたものではない。
 チュソンは眼の前の美少女を見ながら、考えた。この娘の実家がどれだけの威勢を誇ろうとも、今、朝廷でも飛ぶ鳥を落とす勢いの羅氏には敵わないはずだ。
 この娘の父親も相手が羅氏なら、花婿候補として役不足だとは思うまい。
 ーなどと、チュソンはこの時点で、その少女に求婚するにはどうすれば良いかと考え始めていた。これほどの美少女だ、うかと手をこまねいていては、他の男にかっ攫われるかもしれないではないか。
 そうなれば、何故、早くに求婚しなかったのかと後悔することになるだろう。
「藤は藤でも白い藤?」