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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 野次馬たちは肩をすくめ、ひそひそと囁き交わしながら散ってゆく。少女は気に留める風もなく女の子に近づき、腕に抱きしめた。
 女の子はいまだにしゃくり上げている。
「良い子だから、もう泣かないの」
 あたかも慈愛に満ちた姉のような口調で、彼女は女の子に言い聞かせながら背をトントンとあやすように叩く。
 すすり泣く女の子に目線を合わせるべく、彼女はしゃがみ込んだ。
「あなたは自分がどれほどいけないことをしているか、判っている?」
 女の子が幾度も頷いた。
「良い子ね」
 彼女は女の子の頭を優しく撫でる。
「お父さんやお母さんは、どうしているの?」
 女の子がふつりと泣き止み、少女を見た。
「おとっつぁんはいない。おっかさんは病気」
 訥々と女の子が語る話で、彼女が盗みを繰り返した経緯も自ずと浮かび上がった。
 女の子の名前はセナ、今年九歳になるという。そこでチュソンは二度愕いた。セナは彼はむろん、美少女よりも年上であった。どう見ても五、六歳にしか見えないほど小柄で、痩せている。恐らく育ち盛りに十分な栄養が取れないのが原因だろう。
 セナは元々は郊外の鄙びた農村で両親や妹と共に暮らしていたという。しかし、度重なる冷害による飢饉で農業もたちゆかなくなった。セナの父は一家を引き連れ、都に上った。人の多い都で職を探そうというつもりだったらしい。
 しかし、都では職が見つかるどころか、かえって農村にいた方がマシだったと思うほど、暮らしは苦しかった。やがて父親は酒に現実逃避し、母に暴力をふるうようになる。
 ある日、父親はいつものように仕事を探してくると家を出たまま、永遠に帰ってはこなかった。残されたのは母とセナ、それにまだ幼い二人の妹たちだった。
 母はそれでも懸命に働いた。内職で仕立てものをしていたが、次第に注文も途絶え、収入はまったく入らなくなった。母はやむなく夜、町中に立ち、ゆきずりの男に身体を売り日銭を稼ぐようになる。しかし、ある夜、両班の男を客に取った際、男が金を払わず立ち去ろうとして、諍いになった。
 結局、母は男に殴る蹴るの暴行を受け、半殺しの状態になった。以来、母はずっと寝付いたままだ。客に殴られた際、折れた母の右腕は医者に診せることもできなかったため、不自然に曲がったままだ。
 セナはそんな中で、下町の露店街をうろついては盗みを繰り返した。母や妹たちにわずかなりとも食べさせてやるためだった。
 すべてを聞き終えた時、美しい少女は泣いていた。
「セナは私と年が変わらない。まだ小さいのに、苦労したのね」
 自分より年上のセナに対して、妹のような口ぶりで話しかける。彼女は袖から例の薄紅色のチュモニを取り出した。
「あなたの気持ちを傷つけてしまうかもしれないけど、良かったら、これを持って帰って」
 膨らんだ巾着には、かなりの金子が入っているに相違なかった。八百屋が見た通り、かなり裕福な家の娘なのだろうか。
「貰っても良いの?」
 おずおずとセナが問えば、彼女は輝くような笑顔で頷いた。確かに八百屋が気を悪くしたように、金銭問題だけで解決できることとできないことがある。
 けれども、現実としてセナの一家は金がなければ、もうどうにもならない極限状態にまで追い詰められている。ここで綺麗事を言っても、何の意味もないのは判っていた。
 あの巾着の膨らみ具合では、セナや妹、母が何ヶ月かは暮らしてゆけるだけの金額はあるのではないかと思う。
「ありがとう」
 セナが礼を言い、踵を返そうとする。
「あの!」
 チュソンは咄嗟に声を出していた。二人の少女の視線がチュソンに集まる。
 この時、チュソンは今まで自分が彼女たちをずっと不躾に眺めていたことに思い至った。セナの身の上話も、彼は彼女らからつかず離れずの場所に佇み聞いていたのだ。
 知り合いでさえないのに、いきなり声をかけた不審な奴だと思われるかもしれない。
 チュソンは慌てた。
「僕の家で女中を探している」
 咄嗟に出たのは、もちろん出任せだ。だが、女中が足りないわけではないが、事情を乳母に話せば、セナ一人くらいは下働きとして雇ってくれるだろうという確信はあった。ヨニは母の信頼も厚い女中頭で、羅家の女中たちをまとめる立場にある。ヨナが母に上手く取りなしてくれさえすれば、母も幼い下働きが増えることに賛成するだろう。
「ええと」
 チュソンはまた口ごもる。何だか今日の自分はおかしい。学問の時間ならば、どれだけ難解な書物を見てもたちどころに記憶し、一文字一句間違えることなく復唱できるというのに。
 自分と年の近い女の子たちを前にすると、気の利いた科白一つ出てこないとは!
「僕の場合も、もしセナが良かったらだけど」
 彼は息を吸い、続けた。
「良かったら、うちで働けば良いよ」
 セナの瞳が見る間に潤んだ。
「若さま、お嬢さま、ありがとうございます」
 美少女が微笑んで言った。
「殴られたところは大丈夫? 痕は残らないと思うけれど、帰ったらすぐに冷やすと良いわ」
 セナは涙ながらに頷き、大切そうに巾着を袖に入れた。セナは何度も振り返り、やがて通りを行き交う雑踏に紛れた。
「必ず、うちを訪ねてこいよ」
 チュソンは別れ際、セナに羅家の屋敷のある場所も詳しく教えてやったのだ。
 と、眼の前の少女の身体がふいに揺らいだ。
「あっ」
 間抜けにも、ここでも自分は彼女に手を差し伸べることもできなかった。ふらついた彼女は小さな石ころに足を取られ、その場に転んだ。緑のチマが大きくはためき、可憐な花が散るような風情だ。
「大丈夫かい?」
 彼は狼狽え、その場に膝を突いた。彼女は、自分の倍はありそうな大男に敢然と向かっていったのだ。向こう意気が強そうに見えても、内心は恐怖心を感じていたとしても不思議ではない。どうやら、緊張が緩んで、気が抜けてしまったようだ。
「大丈夫です、ご心配をおかけしました」
 彼女は頷き、今度こそチュソンが出した手を取って立ち上がる。
「でも、怪我をしてるんじゃ」
 チュソンの視線に、彼女も自分の足下を見やる。綺麗な花びらのようなチマが土に汚れ、わずかに破れている。彼女がチマを心もち捲った。下に履いた長穿袴(ズボン)も躊躇うことなく持ち上げる。
 途端に現れた白い脹ら脛が眼に眩しい。なぜだかチュソンは見てはいけないものを見たような気がした。それでも、彼女の白い脚から眼が離せない。
 やはり、脹ら脛の下方に擦り傷ができ、薄く血が滲んでいる。
「随分と派手な転び方をしたのね、私」
 言葉遣いが先刻より、親しげなものになっている。チュソンは、たったそれだけで彼女が自分に心を開いてくれたような気がして、嬉しくてならない。
「セナどころではないね。君も早く帰って手当てして貰った方が良い」
「たいしたことないよ、こんなのは舐めときゃ治る」
 美少女らしからぬお転婆な物言いに、チュソンは眼を見開いた。
「それにしても、君は勇敢だね」
 愕きも冷めやらぬ中、チュソンは自然に言っていた。
「私がー勇敢?」