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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 更に踏み込んだ問いにも、少女は嫌な表情はしなかった。にっこりと笑い、頷く。
「私の母が白藤が大好きだったと父から聞いているの。私が生まれた朝も、庭の藤棚にたくさんの藤が咲いて、匂うほどだったんだって。だから、私も白い藤が好き」
 やはり彼女には笑顔が似合うと、眩しく見つめたその時、チュソンはハッとした。
 今、彼女は何と言った? 彼女は?母が白藤が大好きだった?と明らかに過去形で話している。もしや、彼女の母親は既にこの世の人ではないのか?     
「ごめん、もしかして僕、言ってはいけないことを言ったかもしれない。君の母上はー」
 もし違っていてもいけないので、あからさまには言えなかった。彼女は少し淋しげに微笑んだ。
「気にしないで。母上は私を産んだ後、すっかり身体を壊してしまった。私の生命と引き替えに、あの世に行ってしまわれたようなものだから、私には母の記憶はないの」
「そう」
 チュソンは我が身の迂闊さをつくづく歯がゆく思った。この綺麗な娘と知り合いになれた嬉しさのあまり、今日は我ながらどうかしていると思うほど浮かれている。
 言わなくてはならない科白は出てこないどころか、言わなくても良い言葉ばかりが出てくる。こんな有様では、さぞかし無粋な奴だと思われていることだろう。
 自分はつくづく恵まれているーと、チュソンは心から思った。いつもは息子のことを過剰ほど構ってくる母を疎ましく思うけれど、この娘のように生まれてほどなく母を失うことを思えば、随分と罰当たりな話だ。
 今日、屋敷に戻ったら、もう少し母に優しい態度で向き合おうと改めて決意する。
 少女が笑顔を見せ、思い出したように言った。
「そろそろ帰らなきゃ」
 背を向けた彼女をチュソンは咄嗟に呼び止めた。
「待って」
 数歩あるいた先で、彼女が振り返る。チュソンは彼女の星を宿したような漆黒の瞳を見つめた。
「君の名前は?」
「朴支央(パク・ジアン)」
「ジアン」
 チュソンは知ったばかりの彼女の名を囁く。それは殊更甘美な言葉のように、彼の胸に甘やかな感情をかき立てた。
 彼女が今度こそ踵を返そうとする。彼は慌てて叫んだ。
「僕はナ・チュソン」
 ジアンが振り向いてニッと笑った。片手を上げ、ひらひらと振り、後は一目散に駆け出した。あれでは、チュソンの言葉は、ろくに聞いてはいないだろう。
 ジアンが人波に紛れても、チュソンはまだ魂を抜かれたようにボウと突っ立っていた。あまりに心ここあらずで立ち尽くしているので、両脇をゆき過ぎる人が露骨に顔をしかめている。
 行商人の担いだ大きな荷物が彼の肩にまともに当たっても、彼は痛みすら感じなかった。
 ジアンの花のような笑顔が瞼に焼き付いて消えそうもなかった。
 それにしても、屈託ない彼女が時折見せる翳りが気になってならない。生母が彼女を産んだことで体調を崩し、早くに亡くなったという。恐らくは、哀しい事実も翳りの一つの原因であるに相違なかった。
 一体、どこの家門の娘なのだろう。チュソンが知っているのは、朴氏の姓を名乗り、ジアンという名前と彼女の母がもうこの世の人ではないということだけだ。
 その他にも、彼女を哀しませる理由があるのだろうか? 
ー彼女の笑顔を守りたい。
 また強い衝動が湧き上がった。彼女のあの輝くような笑みを曇らせるすべてのものから、守りたい。
 考えてみれば、自分はあまりにも彼女について知らなさすぎる。彼女を守るためには、まず彼女についてもっと知らなければならない。いや、綺麗事は止そう。知らなければならないのではなくて、自分自身が知りたいと誰より強く願っているのだ。
 まあ、良い。この時点で、彼はかなり楽観的だった。都は広しとはいえども、名家と呼ばれる一族はさほど多くはない。母を生まれて日の浅い中に失った境遇は気の毒としかいいようがないけれど、ジアンの身なり、まだ子どもの彼女が大金を持ち歩いているところからも富豪、或いは上流両班の息女なのは疑いようもないのだ。
 父や母にそれとなく探りを入れれば、ジアンの身許は直に知れるだろう。むろん、八歳のチュソンが今すぐに彼女に求婚はできない。とはいえ、早婚の時代、早ければ十歳が過ぎれば婚姻を結ぶ者はいる。名家、高貴な家柄であればあるほど、早婚の傾向があった。
 あと数年内には、チュソンがジアンに結婚を申し込んだとしても、早熟だと眉をひそめられることもないのだ。
 時が来れば彼女に求婚できるように、それまでに彼女がどこの誰なのか必ずや突き止めよう。チュソンは固く心に誓った。
 それにしても、今が十一月なのは残念だ。もし彼女が好きな藤の花が咲く季節であれば、花を口実に彼女を屋敷に誘うこともできたのに。
 チュソンの屋敷はさして立派でもない。その割には庭は広く、花が好きな母の趣味で、庭はいつも手入れが行き届き、四季ごとに訪れる客人の眼を愉しませている。五月に入れば白だけでなく、紫とふた色の藤の花が見事な藤棚は殊に母の自慢の一つだ。
 とはいえ、月日はとどまることなく、常に流れるものだ。今は陰鬱な鉛雲が垂れ込めた晩秋でも、花が咲き蝶が飛ぶ華やかな季節は必ずや来る。いつか彼女に求婚して、二人であの美しいふた色の藤を眺める日が今から待ち遠しくてならない。
 チュソンは滅多になく口笛を吹きながら、屋敷までの道程を辿った。高官の棲まいが立ち並ぶ閑静な屋敷町の一角に、チュソンの父の棲まいはある。
 堂々と道から続く石段を登り正門から入る勇気は流石になかった。屋敷をぐるりと囲む築地塀沿いに裏へと回り込む。
 いつもの場所には、ちゃんと頼もしい乳兄弟の姿があった。
「若さま、今、俺がどれくらい怒っているかはご存じですよね」
 チョンドクが眼をつり上げて見せると、チュソンは眼の前で拝むように両手をすりあわせた。 
「悪い、兄弟よ」
 チョンドクはこれ見よがしに盛大な溜息をつく。
「まったく、若さまときたら、こういうときだけ、俺を兄貴呼ばわりするんですから」
 チュソンは上目遣いにチョンドクを見た。
「そんなことはない! もちろん、そなたはいつだって俺の兄貴だ」
 チョンドクはまたも溜息をつきながら、改めて自分より頭一つ分小柄な若さまを見る。
 ?神童?の呼び声も高いにも拘わらず、至って育ちの良さそうな、のんびりとした笑顔だ。この無邪気な若さまが難関とされる科挙を受ければ、この歳でもう合格は間違いないと噂される頭脳を持つとは信じられまい。
 結局、この笑顔には負ける。チョンドクも母ヨニと同様、この若君の笑顔での?お願い?には弱いのだ。
 切れ者だが、どこか抜けている若さまをチョンドクは弟のように思っている。王室とも縁続きの名門羅氏の若君を使用人の自分が弟分呼ばわりしているなぞ、口に出せるものではない。けれど、チョンドクは若さまを心から大切に思っている。
 ただ、一抹の不安もあるにはあった。この天賦の才を持ちながら、八歳の少年らしい無邪気と悪戯好きな面も持つ若さまは、精神的に不安定な部分がある。大人顔負けの頭脳は、年相応の無邪気さとは相容れないものだ。時々、若さまがそれとは知らず、傷ついているのを傍で見るのはチョンドクも辛かった。